じじぃの「科学・芸術_976_中国・国民革命・統一国家への模索」

中華民國國軍 陸軍軍歌 ROC ARMY ANTHEM ( FREE CHINA )

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DQBEB8jp9Qs

国民革命軍

世界史の窓
1925年8月に中国国民党が国民革命を推進するために組織した軍隊。前年に設立した黄埔軍官学校で養成した幹部を中心に組織し、はじめ五つの軍団を構成し、それぞれに国民党員が政治的指導員として配置された。
国民革命軍は当初から蒋介石が総司令として掌握し、国民党内で汪精衛(汪兆銘)などのの主流に対抗する力をつけていくこととなる。蒋介石は国民革命軍を率いて1926年から北京の軍閥政権打倒をめざし、北伐を開始ることとなる。
蒋介石は黄埔軍官学校の校長としてほとんど毎週、自ら講話を行い、「三民主義革命」を説き、「一身を犠牲にして革命のために死ぬ」ことを教えた。そこで強調されたのは彼を家父長とする家族・宗族的結びつきであった。
https://www.y-history.net/appendix/wh1503-058.html

『中国の歴史を知るための60章』

並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行

連省自治から国民革命へ より

辛亥革命(しんがいかくめい)以降の中国では、多くの省で、駐留する軍人が政治を支配支配していた。これらは多くの場合、内戦で肥大化した兵員を維持する費用を現地調達しなくてはならず、勢力圏確保のために互いに抗争を繰り広げた。これらの軍隊に対する経費は、地方財政の大きな負担となっていた。これらの軍人は、このため非難を込めて「軍閥」とよばれた。これに対し、省議会などの自由機関が中心となって、軍閥の省政治への干渉を制限しようとする省自治の動きも出てきた。
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一方、北京の中央政府では、袁世凱(えんえいがい)の死後、軍閥間の抗争による目まぐるしい政権交代がつづき、全国政治に対する掌握力は著しく低下していた。このため、省自治に対し妥協せざるをえず、1923年制定の憲法では省自治法の制定権が認められた。
しかし、中央、地方ともに、政治的動向は結局は軍閥間の抗争の影響を脱することはできず、審議会自体、各省内部の利害関係を充分に調整することはできなかった。このため、1920年代半ばには、国民会議運動など、北京政府のリーダーシップとも、省議会による自治とも異なる方式による中国の統一を目指す動きが出てきることになる。それはやがて、軍事的な手段による全国統一と社会改革を目指す国民革命への支持につながっていった。
ここで、国民革命の中心となった中国国民党と、初期においてこれと協力関係にあった中国共産党という、ふたつの政党の成り立ちについてみておきたい。両党はそののちの中国の行方に大きな影響を与えることになる。
1910年代後半以来、孫文は南方の地方軍と連携し、広東省を中心に北京政府に対抗する政権を築いていた。しかし、孫文とこれら地方軍との関係は同床異夢であり、孫文は2度にわたり広東を遂われる。これらの失敗の過程で、1919年、孫文はみずからが率いていた中華革命党を中国国民党(以下、「国民党」)と改称し、1921年末以降、社会主義政権が成立していたロシア(1922年にソ連成立)、およびロシア共産党を中心とした各国賞賛主義政党を指導する国際組織・コミンテルン共産主義インターナショナル)の代表と接近していく。
一方、1918~20年ごろ、ロシア革命後の影響を受けた中国知識人のなかには共産主義に傾倒する者が登場しつつあった。コミンテルンは中国に使者を派遣して各地の共産主義グループと接触し、1921年7月には中国共産党(以下、「共産党」)が結成された。これが今日の中国の政権政党の誕生である。1922年後半以降、ソ連コミンテルンの独立により、国民党は共産党と合作し、少数派だった中国共産党員は個人の資格で国民党に入ることになった(第1次国共合作)。
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1925年5月30日、上海の日本資本の紡績工場における労働争議弾圧に抗議して、学生などの群衆がデモ行進をおこなった。これに対し、租界警察のイギリス人署長が発砲を命じ、20名近い死傷者がでた。この事件は学生、資本家、商人、労働者など、さまざまな階層のナショナリズムを刺激し、ストライキやボイゴットなど、大規模な反帝国主義運動をひきおこした(五・三〇運動)。運動は上海以外の中国の主要都市にも広がり、なかでも広州、およびイギリス領香港では大規模なストライキが起こった(省港スト)。
こうしたナショナリズムの高揚を背景にしつつ、軍事力による軍閥妥当と統一政権の樹立が叫ばれるようになり、これが国民革命の動きにつながっていく。1925年7月、広東省では国民党の指導下に国民政府が樹立され、国民革命軍が編成された。1926年に北伐戦争が開始されると、国民革命軍はまたたく間に長江流域まで進撃し、1927年1月までに政府機関の所在地を武漢に移した。
北伐の進展は単なる軍事的な染料ではなく、国民革命軍の勢力下に置かれた地域では、農村部における農民運動、都市部における労働運動の一層の高揚をともなわった。これらの大衆運動は、当時国民党に参加していた共産党員によって担われることが多く、運動はしばしば過激化し、漢口、南京などでは、勢いづいた兵士や民衆がしばしば列強との摩擦を引き起こした。このため、孫文死後に台頭していた国民党の指導者のひとり・蒋介石(しょうかいせき)は、日本・米・英の圧力や上海の資本家たちの要請を受けて、1927年4月12日、上海で共産党やその指導下の労働運動に対する弾圧をおこない(四・一二クーデタ)、ついで南京に国民政府を樹立した。このため、一時は南京と武漢にふたつの国民政府が並立することとなったが、最終的には武漢国民政府が共産党と訣別し、南京国民政府に合流することとなった。