じじぃの「科学・芸術_975_中国・孫文と辛亥革命」

映画 『孫文-100年先を見た男-』 予告編 9月5日公開

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7c9gXyT6KT0

映画『1911』観賞―辛亥革命?建国?100年後の「孫文」さんを考える

中国帰りの映像撮影 "EmmyBBC~本日の北京"ブログ(Blog)
今更ながら…先々週、辛亥革命をテーマにした『1911』を観賞。
さすがジャッキー・チェン。中国建国60周年の時観た『建国大業』よりも、はるかにエンタテインメントとして楽しめました。
袁世凱に政権を譲らなければ、今の中国は違う形をしていたかも…
http://koma.cocolog-nifty.com/emmy/2011/11/1911100-1d00.html

『中国の歴史を知るための60章』

並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行

孫文辛亥革命 名医は重病の国を立て直す より

孫文(1866~1925年)は西洋列強の侵略を受けて弱体化し、腐敗していた清朝を革命によって倒して国家の再生を図ろうとした忠告民主革命の先行者である。彼の影響下に1911年、武昌で起きた蜂起は瞬く間に全中国へ拡大して、清朝が滅びる結果になった。この年の干支(えと)が辛亥なのでこの事件は辛亥革命(しんがいかくめい)と呼ばれる。
この革命が中国に2000年つづいた封建的君主専制制度に終止符を打ち、アジア最初のブルジョア階級の共和国である中華民国を樹立した意義は大きいものであった。孫文中華民国の臨時大総統に選ばれる。抗日戦争時中国国民党孫文を「国父(こくふ)」と尊称することを決めている。
孫文は日本との関係が深く、中国での呼称の孫中山(そんちゅうざん)は、日本亡命中に用いた中山樵(なかやましょう)という変名に由来する。
孫文広東省香山県(現在の中山市)の農家に生まれた。生まれた村はアヘン戦争当時林則徐が軍本営を置いた場所に近く、マカオは陸伝い、香港は湾を隔てた先にある。太平天国(たいへいてんごく)の動乱にも巻き込まれ、一族には反乱に加わった者もいた。私塾に入り四書五経を学ぶが、太平天国の老兵から太平天国の物語を聞いてあこがれていた。
14歳のときに、ハワイで成功を収めた長兄の孫眉が孫文を呼び寄せた。孫文は英語で授業をするイオラニ・スクールで学び、ハワイの最高学府オアフ・カレッジに進んだ。こうして孫文は欧米の近代的教育を受けた。1883年、孫文キリスト教信仰を懸念した孫眉が彼を帰郷させた。やがて村で北帝廟の神像を破壊して村人の反発を買い、香港に出てキリスト教の洗礼を受け、広州の医学校に学んだ。1997年、香港西区書院(香港大学医学部の前身)に移り、1892年、首席で卒業してマカオ、広州で医者を開業した。
孫文は西区書院に転じた理由を、内容が優秀で環境が自由なので革命の鼓吹(こすい)が可能と考えたと述べている。友人3人と毎日革命を談じて、「四大寇(しだいこう)」(寇は盗賊)とよばれた。孫文は医者として名声を得たが、やがて革命運動に専念することになる。
1894年、李鴻章(りこうしょう)に上書(じょうしょ)して改革を主張するが入れられず、ハワイに渡って最初の革命組織興中会(こうちゅうかい)を創設するが、応じる者は寥々(りょうりょう)たる有様だった。1895年、香港に興中会本部を設立して広州で1回目の蜂起を計画するが、事前に漏れて失敗する。軍旗とした青天白日旗(せいてんはくじつき)をデザインした陸皓東(りくこうとう)は逮捕処刑され、孫文清朝に指名手配されてイギリス当局に追われ日本へ避難した。日本で辨髪(べんばつ)を切り、洋服を着るようになった。翌年、在米華僑のなかに興中会を拡大し募金を集めるためにハワイからアメリカへ渡った。
1896年、ロンドンで清朝行使館内に幽閉され本国送還の危機に陥るが、西医書院の恩師カントリーの助けで窮地を脱した。このいきさつを英文で出版し、孫文の名前は一躍世界に拡がった。ロンドンに10ヵ月ほど滞在し、大英博物館で読書と思索にふけり、ヨーロッパの政治風俗を視察して社会問題の存在を知り、民生主義にもとづいて民族、民権の両問題をも同時に解決しようと三民主義(さんみんしゅぎ)を完成した。
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1905年、留学生が多数集まり、革命の気運も高まっていた東京で、興中会、華興会、光復会などを糾合して中国同盟会を設立し総理になった。同盟会は「韃虜(だつりょ、満州族清朝)を駆除して中華を恢復する(民族主義)、民国を創立する(民権主義)、地権(土地所有権)を平均する(民生主義)という三民主義を綱領とした。機関紙『民報』を発行して梁啓超(りょうけいちょう)、康有為(こうゆうい)ら改良派の立憲君主論や革命反対論と論戦し革命宣伝に努めた。そして革命方略を定め、国民革命をおこなって中華民国を創設すると宣言した。
こののち孫文自身が指導した蜂起がいくども試みられたが、ことごとく失敗した。このころ清朝は支配勢力の立て直しのために立憲制実施を宣言せざるを得なくなり、憲政視察団を欧米や日本に派遣した。立憲実現要求の声はますますたかまり、中央に資政院、各省に諮議局が設けられ、立憲運動は盛んに展開された。また外国に奪われた鉄道や鉱山の利権を取り戻そうとする利権回収運動も大きなうなりとなっていった。このようにして変革を求める動きは急速に高まっていた。
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1914年、宋教仁暗殺、5ヵ国銀行団善後大借款に反対する第2次革命は軍事力不足でたちまち失敗に帰して孫文は日本に亡命した。そこで中華革命党を結成し、党員に孫文個人に立ちする絶対的忠誠を求めた。一部の国民党員はこれに反対し、黄興などは加入しなかった。1915年、梅屋庄吉の仲立ちで宋慶齢(そうけいれい)と日本で結婚した。香港で写真館を開いていた梅屋は、孫文が香港で興中会を結成したころ意気投合し、以来財政的な支援をつづけた。1916年、袁世凱の帝制策謀に際しては『討袁宣言(とうえんせんげん)』を出すが、積極的役割は果たせず、中国は軍閥混戦の情況に陥っていった。孫文は広州で護法運動をおこして政権樹立を図り、北京の軍閥政府を倒すために北伐を画策する。
この間、パリ講和会議へ抗議する五四運動が全国に広がり、農民運動、労働運動が発展して、1921年には中国共産党が成立した。1919年10月、中華革命党は中国国民党に改められた。李大剣、陳独秀らの共産党員と接触した孫文は、1923年1月、ソ連政府代表のヨツフエと「連ソ容共」の共同宣言を発表した。1924年1月、中国国民党第1回全国大会が広州で開かれた。全共産党が個人の資格で国民党に加入し、国共合作(こっきょうがっさく)が正式に成立した。
「連ソ、容共、労農援助」の3大政策が採用され、反帝、反封建の国民革命を目指して、国民党は大衆組織になった。三民主義には帝国主義の侵略に反対する民族主義、独占資本の制限、「耕す者には田を」という封建的地主制廃止などの新たな解釈が加えられた。黄埔軍官学校を設立して革命軍の将校、政治委員を要請した。
1924年9月に起きた第2次直奉戦争が終わると、孫文は請われて北上したが、北京到着後すぐに発病し、、1825年3月に肝臓癌のため死亡した。「革命なお未だ成功せず、……継続努力して貫徹を求むべし」という遺嘱(いしょく)を同志に残した。遺体は北京郊外の碧雲寺に埋葬されたが、南京に中山陵(ちゅうざんりょう)が完成すると、そこに埋葬された。