ゆっくり解説動画「孫文」(民国成立から晩年まで)
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世界史の窓 孫文
孫文(1866~1925、孫逸仙、孫中山とも号した)は広東の農民出身であったが、華僑として成功していた兄を頼って14才でハワイに渡り、アメリカの民主主義を知ると同時にクリスチャンとなった。
19才で広東に戻り、香港で医学を学び、医師を開業したが、個人を救う医師よりも危機の中国を救う国医となるほうが大切だと考えるようになり、改革運動に加わった。1894年にハワイで興中会を結成して以来、数回にわたる蜂起失敗、亡命をくりかえし、1905年に中国同盟会を組織し、三民主義を理念として掲げ、ついに1911年に辛亥革命(第一革命)を成功させ、1912年に南京に中華民国を樹立、臨時大総統となった。
その後北京は袁世凱に奪われ、広東を拠点に国民党の一員として抵抗(第二革命)、国民党が弾圧されてからは秘密結社中華革命党を結成して袁世凱の帝政復活に反対(第三革命)、さらに北京の軍閥政府に対抗して1917年に広東軍政府を樹立した。
第一次世界大戦後の1919年、五・四運動を機に中国情勢は大きく転換、孫文は大衆政党として中国国民党(現在の国民党)を組織した。20年代にはロシア革命後のソヴィエト政権(ソ連)と接近して、1924年に国共合作(第1次)に踏み切り、全面的な国民革命を開始したが、翌1925年に「革命いまだ成らず」の言葉を残して死去した。
その生涯は毀誉褒貶も激しかったが、一貫して国民革命を求めたのであり、現在も中国大陸、台湾のいずれにおいても国父として尊崇されている。
https://www.y-history.net/appendix/wh1403-076.html
『失われた世界史 封印された53の謎』
歴史の謎研究会/編集 青春文庫 2018年発行
辛亥革命の謎――中華民国樹立後、すぐに孫文が辞職した真相 より
孫文らによる度重なる武装蜂起が功を奏して、1911年10月に起きた武昌蜂起は全国に波及。清王朝を絶体絶命の窮地へと追いやった。革命派は孫文を新政権のトップに据えるが、何と孫文はその職をすぐさま、清のラストエンペラーから後事を託された袁世凱に譲ってしまう。いったい裏でどんな取引が行われていたのか。
孫文はなぜ総統職を譲ったのか
10月10日は双十節と呼ばれ、台湾では建国記念日として扱われる。1911の同日勃発した武昌蜂起をきっかけに「辛亥革命」が起こり、清王朝のラストエンペラー溥儀(ふぎ)の退位と、アジアで最初の共和国・中華民国の誕生を促したのだから。
台湾では「国父」の尊称を贈られている革命運動の指導者・孫文は、武昌蜂起の成功を、資金集めのため訪れていたアメリカで知った。列車での移動中に目にした新聞で。
しかし、孫文は慌てて帰国の途に就くことなく、予定通りヨーロッパでも資金集めに奔走した後、同年12月25日になってようやく上海の土を踏んだ。翌月1月1日には臨時総統に就任して、アジア初の共和国である中華民国の樹立を宣言するが、それも束の間、2月13日には辞表を提出。後任に清王朝の最高実力者と化した袁世凱を推薦している。いったいこの40余日間に裏で何があったのか。
それを説く前に革命派の系譜と清王朝の内実について説明しておかなければならない。孫文が革命運動に身に投じたのは、1894年の興中会(こうちゅうかい)結成を嚆矢とする。以来何度か武装蜂起を試みたが、ことごとく失敗に終わる。
特に革命団体は雨後の筍のごとくたくさんあったが、ばらばらに活動していたのでは効果がおぼつかない。そこで1905年には、広東・広西出身者からなる興中会と湖北・湖南出身者からなる華興会が合同して中国同盟会を結成。これに江蘇・浙江出身者からなる光復会のなかの希望者だけが合流するかたちとなった。
中国同盟会のトップには革命運動の最古参で武装蜂起の実績も重ね、華僑世界とも太いパイプを持つ孫文が座ったが、天地会のようなヤクザまがいの秘密結社を武力として頼み、辺境での武装蜂起に拘る孫文のやり方に対し、旧華興会系の会員は不満を募らせていた。
革命派には致命的弱点が
袁世凱の復帰を受けて北洋二鎮(鎮は師団に相当)も進軍を始め、瞬く間に漢口と漢陽を陥落させたが、革命軍も江東で力を結集させ、長江下流域で最大の要衝、南京を手中にした。
1911年11月末時点の形勢はほぼ互角と言ってよかった。人心はすでに清王朝から離れ、皇帝政治そのものとの決別も欲していた。革命派には明らかに勢いがあったが、反面、大きな弱点も抱えていた。軍資金が底を尽き、戦闘の継続が困難になりつつあったのである。銃砲弾の補給や兵士への給与の支払いが滞れば、これまでの戦果がすべて台無しになりかねない。革命軍のなかでも半数近くは党員ではなく、食糧の提供や給与の支払いが滞れば、戦線離脱の恐れがあったのだ。
袁世凱のほうでも頃合いを注視していた。北洋六鎮を総動員しても革命派を完全に鎮圧するには足りず、一方で人心は清王朝と皇帝政治を見限っている。となれば、ここは漁夫の利に走るのが時さくと思われた。
かくして袁世凱と革命派の水面下での交渉が本格化し、清王朝を終焉させたならば、国家元首の座を袁世凱に譲るということで合意に達した。
清王朝中枢にはこの機に及んでも強硬論を叫ぶ者がいたが、革命派による爆弾テロでその急先鋒が暗殺されるに及び、もはや徹底抗戦を叫ぶ者はひとりもおらず、1912年2月12日、皇帝溥儀が退位と袁世凱に政権を託すことを宣言。ここも清王朝と秦の始皇帝に始まる皇帝政治も終わりを告げたのだった。
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どうでもいい、じじぃの日記。
孫文は、台湾で「国父」と呼ばれ、中国でも「民主革命の偉大な先駆者」として英雄視されている。
武装蜂起に失敗した孫文にあった「多くの人を惹きつける魅力」
かつて、小説『友情無限』を書くためにこのあたりのことを詳しく調べてことがあるのだが、バレた理由を簡単に言えば孫文は「土方歳三(ひじかたとしぞう)」では無かったということだ。鉄の団結という点でも、情報管理という点でも孫文は甘かった。もっともそれは孫文という人間の素質でもあって、彼には多くの人を惹(ひ)きつける魅力があった。人望と言ってもいいが、鷹揚(おうよう)で寛容な性格からくるものである。
孫文は長期間、日本に滞在し、日本を革命の基地としていた。その間に、多くの日本人が孫文と接触し、交流した。宮崎滔天や梅屋庄吉、犬養毅らが孫文の活動を精神的にも財政面でも支えたことはよく知られている。