孫文と日本 ~革命いまだ成らず~
知っていましたか? 近代日本のこんな歴史
孫文(号は中山、字は逸仙)は、中国、清末・民国初期の革命家、政治家です。台湾では国父、中華人民共和国では革命の父と呼ばれていますが、その長い革命活動の中で、多くの日本人と関わりを持ち、数度の亡命も含めて何度も日本を訪れています。この時の記録をアジ歴で見ることができます。
孫文は、1866年に広東省香山県(後に孫文の号をとって中山県と改称、現在は中山市となっています)に生まれ、1878年に華僑として成功した兄を頼ってハワイに渡り、ホノルルのイオラニ・ハイスクールを卒業しました。また、1892年に香港の西医書院(現在の香港大学医学部)で中国人として初めての博士の学位を取得しました。こうした体験が彼に国際性を備えた視野の広さをもたらしたと言われています。
●辛亥革命後再び亡命
1911年、辛亥革命が勃発し、中華民国臨時政府が成立すると孫文は臨時大総統に就任しました。しかし、孫文らの勢力はなお弱く、まもなくその地位を清朝の実力者であった袁世凱に譲ります。政権を掌握した袁は孫文らの勢力を圧迫し、孫文はふたたび革命を起こしますが敗れて日本に亡命します。
●「革命未だ成らず」
1924年12月、孫文は北京に到着しましたが、その体は既に末期の肝臓ガンに冒されていました。その後、病状は急速に悪化し、3月12日に北京協和病院で死去しました。この時、有名な「総理遺嘱」を残しています。
孫文の遺体は、いったん北京郊外に埋葬されましたが、1929年に南京の中山陵へ移されました。孫文が埋葬されている中山陵の全景です。
https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p06.html
第2章 「好敵手」中華民国の誕生 より
武装蜂起に失敗した孫文にあった「多くの人を惹きつける魅力」
孫文は1866年(慶応2)11月12日の生まれだから、梅屋庄吉(孫文に多額の資金援助をした長崎出身の実業家)より2歳年上ということになる。大陸の広東省生まれだったが、ハワイに渡っていた長兄に招かれて移住しそこで教育を受けた。最初は医者をめざしていたが、恩師カントリー医師の影響を受けて中国近代史を志し、そのためには韓国と同じ朱子学に凝り固まった頑迷固陋(がんめいころう)な清王朝を倒す革命の道しか無いと考え、中国史上初の近代的秘密結社「興中会」を結成した。ただし当初のメンバーは約40人であり、財政的援助を期待した裕福な華僑たちも、孫文には冷ややかであった。孫文はキリスト教徒だが自分は漢民族の一員であるという強い自覚もあり、異民族(満州族)が建国した清国は正統な中国(中華の国)ではないという信念もあった。
だからこそ「興中会」なので、その規約の第一条には「中華を振興し国体を維持」するのが目的だと明記してある。その結成は1894年(明治27)11月で、日清戦争が始まったばかりである。当時諸外国では日本が勝つと考えていた人間はほとんどいなかったから、孫文もこの戦争に勝つと思っていたかもしれない。それにしても、「東洋の小国」である日本が「中華の国」に戦争を仕掛けること自体当時の清国人の常識ではあり得ないことで、漢民族である孫文の心の奥底には「だから満州族支配ではダメなのだ」という差別意識というか優越感があったことは間違いあるまい。そして孫文には想定外だったかもしれないが、清国は日本に負けた。当然、やはり漢民族主導の近代国家に立て直さなければならない、という孫文の思いに拍車が掛った。もちろん、それは孫文だけでは無い。日清戦争の敗北後は、漢民族の多くが孫文の主張に耳を傾けるようになった。こうなれば革命の大チャンスでもある。先に、孫文は毛沢東やチュ・ゲバラのような武闘派では無く、むしろ新しいタイプの「革命プロデューサー」だと指摘したが、孫文も最初からそうであったのでは無い。やはり革命の王道である地方における武力蜂起、そして中央政府からの独立という、2021年の世界においてタリバンやその反対勢力が試みたのと同じ戦術を実行に移した。そのためには多額の資金が必要だ。そこで、ハワイから香港入りした孫文をカントリーは庄吉に紹介したのである。
2人が意気投合したのはすでに述べた。このときは華僑などからの献金もあったようで、まだまだ事業規模が小さい庄吉からの提供はそれほどでもなかったようだが、それでも600丁の拳銃を調達して孫文に提供したことは記録に残されている。また、後に中国国民党の党旗となり現在の台湾政権でもその一部が国旗のデザインとして使われている青天白日旗(せいてんはくじつき)も、このときにできた。もともとは興中会が武装蜂起の際の軍旗として、革命同志の陸皓東(りくこうとう)がデザインしたものである。青空に輝く太陽を象徴しており、その意味では「日の丸」と似ている。
計画は広東省広州市に武装勢力を送り込み反乱を起こして地方政庁などを制圧、独立宣言を出して革命の拠点とし中国全土を同志を募るというものだった。ところが、この「広州起義」が事前に当局に察知された。
かつて、小説『友情無限』を書くためにこのあたりのことを詳しく調べてことがあるのだが、バレた理由を簡単に言えば孫文は「土方歳三(ひじかたとしぞう)」では無かったということだ。鉄の団結という点でも、情報管理という点でも孫文は甘かった。もっともそれは孫文という人間の素質でもあって、彼には多くの人を惹(ひ)きつける魅力があった。人望と言ってもいいが、鷹揚(おうよう)で寛容な性格からくるものである。
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孫文も重要犯人として手配されたが、それは強盗団の「首領」としてだった。だからこそ家族は無事だったのである。逆に孫文の立場から見ると、武装蜂起はたとえ失敗に終わっても革命派の「旗揚げ宣言」にはなるのだが、それすら当局に完全に抑え込まれてしまったということだ。まさに完敗である。
孫文は、この時までかろうじて蓄えていら清国人の典型的風俗である辮髪(べんぱつ)を切り落とした。もともとこれは漢民族の風習には無いことだが、それまではやむを得ずそうしていたのである。つまり、ここで完全い清国人としての自分を捨てたということだ。孫文は現在写真が残っているような西洋風の髪型になり、背広を着てアメリカに渡り在米華僑に支援を訴えたが、惨敗の後では支持は得られない。焦った孫文は、イギリスに渡り支援を得ようとした。孤立無縁の孫文に資金援助をしたのは、他ならぬ庄吉である。庄吉はこの際日本に亡命したらどうかと勧めたのだが、孫文は庄吉から援助された資金をイギリスの渡航費に充(あ)ててしまった。恩師のカントリー医師がロンドンに戻っており、イギリスで宣伝活動をして資金をさらに得ようとしたのだ。
ところがイギリスに戻ってカントリーを訪ねてみると、「君の行動はすべて清国公使館に把握されている。決して近づかないように」と忠告された。にもかかわらず、孫文はあっさり逮捕され公使館内に連行されてしまうのである。不用心にもほどがあるのだが、このあたりは「まさに孫文」で、「危なっかしくて見ていられない男」なのである。武装蜂起が失敗するわけだ。だが、これは孫文生涯最大の危機でもあった。外国公使館は治外法権である。イギリス政府も手が出せない。ここであっさりと殺されて本国に「送還」され、今度こそ晒し首になることも十分に可能性としてはあった。ところが、孫文は監禁された公使館の雑用係のイギリス人を味方につけカントリーへの手紙を言付けることに成功する。おわかりだろう。ここも「まさに孫文」で、「人を惹きつける魅力のある男」なのである。カントリーはマスコミを動かして孫文の窮状をイギリス市民に報らせ、大衆運動を起こし清国に圧力を掛けた。これが功を奏した。世界の強国イギリスとの軋轢(あつれき)を恐れた清国は、孫文を無傷で釈放したのだ。孫文は後にこのいきさつを『Kidnapped in London』(邦訳タイトル『倫敦(ロンドン)被難記』)という英文手記にまとめて公刊した。これは結果的に、孫文という革命家が中国近代化のために奮闘しているということを世界に知らしめる結果になった。ケガの功名というか、まさに幸運児である。それだけでは無い。ロンドン滞在は孫文の革命家としての生涯に別の重要な要素をもたらした。それを与えたのも日本人である。南方熊楠(みなかたくまぐす)という。