じじぃの「歴史・思想_635_逆説の日本史・中華民国の誕生・宮崎滔天」

孫文(左)と宮崎滔天(右)


『三十三年の夢』 (岩波文庫) |感想・レビュー

読書メーター
中国革命のため孫文を支援した宮崎滔天の半生の夢と挫折を語る。裕福な庄屋に生まれ、幼いころから自由民権運動キリスト教に触れる。
21歳のとき、欧州に侵略されるアジアを救うには、日本では防波堤になりえず、アジア文明の中心である中国の独立と中国民衆の自由が先決であるとの信念を持つに至り、兄とたったふたりで中国革命支援の活動を始める。兄は横浜に、滔天はタイへ向かった。孫文との出会いは僥倖なるも、シンガポールで国外追放となり、武器調達を委ねた相手に資金を横領された。豪快ながら純粋で不器用な人生に引き込まれる。好著。

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宮崎滔天

ウィキペディアWikipedia) より
宮崎 滔天(みやざき とうてん、1871年(明治3年) - 1922年(大正11年))は、自由民権思想を根幹とする世界革命を目指し活動した近代日本の社会運動家
孫文ら中国の革命家たちを支援した日本人の代表格として知られ、孫文の自伝「志有れば竟に成る」で「革命の為に奔走して終始おこたらざりし者」 としてその名が挙げられている。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。
●中国同盟会時代
1905年(明治38年)には孫文らと東京で革命運動団体「中国同盟会」を結成した。
なお滔天は辛亥革命孫文のみならず朝鮮開化党の志士・金玉均の亡命も支援しているが、その金玉均が上海で暗殺された後に、遺髪と衣服の一部を持ち込み日本人有志で浅草本願寺で葬儀を営むという義理人情に溢れた人物であった。

1906年明治39年)、板垣退助の秘書である和田三郎や、平山周、萱野長知らと革命評論社を設立。1907年(明治40年)9月5日、『革命評論』を創刊(~1907年3月25日、全10号)して、孫文らの辛亥革命を支援。
●晩年
1922年(大正11年)12月6日、腎臓病による尿毒合併症により東京で病没した。享年51歳。
上海でも孫文ら主催で追悼会が催された。東京文京区の白山神社境内には孫文が亡命中に滔天とともに座った石段が孫文を顕彰する碑とともに保存されている。日本人として、山田良政・山田純三郎兄弟とともに辛亥革命支援者として名を残す。

中華人民共和国の南京中国近代史遺址博物館の中庭に孫文と並んで銅像が建つ。

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『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第2章 「好敵手」中華民国の誕生 より

孫文が生涯保持していた「漢民族としてのプライド」

宮崎滔天によれば、孫文は「一種形容すべからざる悲壮の語気と態度を以って」「談話を続け」た。最初の印象とはまったく違う熱弁を振るう孫文に、滔天は引き込まれていったのである。
   
  「ああ、今や我封土の大と民衆の多とを挙げて俎上(そじょう)の肉となす。餓虎(がこ)とってこれを食えば、以ってその蛮力をふるって世界に雄視するに至らん。道心あるものもれを用いば、以って人道を提(ひつさ)さげて宇内(うだい)に号令するに足らん。余は世界の一平民として、人道の擁護者としてもなおかつこれを傍観すべからず、いわんや身その邦土の内に生まれて、ただちにその痛痒(つうよう)を受くるにおいてをや。余や短才浅智、もとより大事を担うに足らざるべしといえども、今は重任を他人に求めて袖手(しゅうしゅ)すべき時にあらず。故に自ら進んで革命の先駆となり、以って時勢の要求に応ぜんと欲す。天もしわが党に幸いして、豪傑の士の来たり援くるあらんか、余はまさに現時の地位を譲って犬馬の労に服せん。無かればすなわち自ら奮(ふる)って大事に任ぜんのみ。余は固く信ず、支那蒼生(人民)のため、亜洲黄種のため、また世界人道のために必らず、天のわが党を祐助するあらんことを。君らの来たりてわが党に交を締(てい)せんとするは、すなわちこれなり。兆朕(ちょうちん)すでに発す、わが党発奮して諸君の好望に負(そむ)かざるを努むべし。諸君もまた力を出だして、わが党の志望を援けよ。支那四億万の蒼生を救い、亜東黄種の屈辱をすすぎ、宇内の人道を回復し擁護するの道、ただ我国の革命を成就するにあり。この一事にして成就せんか、爾余(じよ)の問題は刃(やいば)を迎えて解けんのみ」(宮崎滔天)。
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以上が、初対面の宮崎に対して孫文がとうとうと述べた演説の全文である。滔天は大きな感銘を受けた。また「恥じ入りて」「懺悔(ざんげ)」した。時代はすでに20世紀にはいったというのに、自分はまだ古い昔の見方で人を判断している。[いたずらに外貌によりてみだりに人を速断するの病」である。革命家と言えばみるからに豪傑然とした、人を雄視(威圧)するタイプの人間だと滔天は考えていた。しかし孫文はまったく違った。熱弁をふるわぬ平時は「小児のごとく」「田舎娘のごとく」「天真」(爛漫)なのに、その「思想の高尚なる」「識見の卓抜なる」「抱負の遠大なる」ところは見事で、しかも「情念の切実なる」ところもすごい。まさに「東亜の珍宝」だと簡単した滔天は、「余は実にこの時を以って彼(孫)に許せり」と記した。孫文の絶対的な支持者となったのである。

さて、この演説によって示された孫文の革命理論を分析しよう。最初に強く感じられるのは、孫文が保持している漢民族としてのプライドである。中華思想と言ってもいい。要するに、漢民族では無い「清虜」が支配しているから支那は上手くいかないので、この支配を倒し漢民族の支配に戻せば問題はすべて解決するように考えていることだ。それがもっとも強く表れているのが「もし豪傑の士の起りて、清虜を倒して代って善政をしかんか、法を三章に約するも随喜渇仰して謳歌すべし」というところだ。「法を三章に約する」と言えば誰でも想起するのが、そもそも漢民族という名称の由来となった。漢王朝を建てた高祖劉邦(こうそりゅうほう)である。劉邦はそれまでの秦(しん)王朝が施行していた複雑な法律を一切廃止して、「人を殺してはならぬ」「ひとを傷つけてはならぬ」「物を盗んではならぬ」の3つの法だけにし、大いに人心をつかんだという故事に基づくもので、孫文はこれで日ごろから漢民族のプライドをくすぐっていたのだろう。「我が国民の古を思うゆえんのものは、ひとえに三代の治を慕による。しかして三代の治なるものは、実に能く共和の真髄を捉え得たるものなり」もそれである。「三代の治」とは、大意にも述べたように権力の座を世襲とせず優れたものに禅譲したとされる古代の3人の聖王(尭、舜、禹)の政治であり、それが共和政治の真髄に通じるものであるから、漢民族の統治する支那では古代から共和政治を理想とする考え方があった、孫文は主張しているわけだ。
問題は、この主張が歴史的に見て本当に正しいか、である。

漢民族にとって想定外のアクシデントだった「共和政治」

孫文宮崎滔天に述べた「共和政治」という概念は中国に古代から存在したという認識、これは歴史的に見て正しいのか?
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問題は、孫文が古代中国の共和と近代の共和がまったく同じものだと「誤解」していたかどうかだ。可能性としては、異なるものだと知っていたのに、あえてそう言った(嘘をついた)という可能性も無いではない。しかし、孫文は誠実な人柄で嘘を声高に叫ぶような人間ではない。また、明治初年あたりから「共和」はrepublicの訳語として定着していたのだから、孫文がその両者を同じものだと思い込み、古代中国にそれがあったのだから、それが「先哲の偉業」つまり古代からの伝統だと誤解する可能性も無いではない。しかし私は、その誤解にも朱子学の悪影響があると考えるものである。