じじぃの「歴史・思想_641_逆説の日本史・中華民国の誕生・宋慶齢」

薇羽看世間【日本語版】夫の孫文の生前理想に反した宋慶齢の不義な人生

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9VZd4bZSJDw

中国を支配した華麗なる宋家三姉妹


内山完造も眠る 宋慶齢陵園

2016/09/10 秘境・上海情報
●中国を支配した華麗なる宋家三姉妹
長女宋靄齢は大財閥の孔祥熙と次女の宋慶齢は中国革命の父孫文、三女の宋美齢蒋介石と結婚
https://ekobiiki888.hatenablog.com/entry/20160910/1473507103

『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第2章 「好敵手」中華民国の誕生 より

「宋教仁の祟り」がケチのつき始めとなりついに瓦解した北京政府

袁世凱辛亥革命では皇帝を退位させ、孫文に代わって臨時大総統となった)は着々と皇帝即位のプロセスを進めていた。そのために設けられた御用会議「参政院」への根回しを終えると最終段階に入った。カネで官僚や民衆を買収し袁世凱が皇帝になることを望むという触れ込みの「帝制請願団」を作らせ、世論を盛り上げた。
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欧米列強も日本も、袁世凱の皇帝即位がこれほど支持されないとは見ていなかったようだが、中国全土でそれに対する反発が起こると、あわてて方針を転換した。「洪憲皇帝」不支持の方針に転換したのである。そこで袁もあわてた。結局は1916年(大正5)3月22日、袁世凱は「退位」を表明した。この日付、お気づきだろうが、ちょうど3年前に己の野望を遂げるため宋教仁(民主主義の実現を目指す最も急進的な革命家だった)を死に追いやった日と同じである。日本人なら「宋教仁の祟(たた)り」などと考えるかもしれないが。「怪力乱神」つまり超自然現象や神を信じない人間にとってはただの偶然である。
袁世凱はどちらの態度を取っていたが、寡聞にして私は知らない。ただ、これが「ケチのつき始め」どころか大瓦解の始まりだったのは事実である。中央政府に反抗して広東、浙江、陝西、四川、湖南など各省が独立を宣言した。これで強いショックを受けた袁世凱はその年の6月6日、持病の悪化でこの世を去った。56歳だった。その後、袁世凱の腹心たちが相次いで「北京政府」を維持しようとしたが、北京周辺はともかく各地ではまさに雌伏時代の袁世凱が率いていたような「軍閥」があちこちに生まれ、統一政権としての力は大きく低下した。つまりこれ以降中国は戦国時代ならぬ「軍閥割拠時代」となり、孫文の後継者蒋介石(しょうかいせき)が国民党を立て直すまで大きな混乱が続くことになる。

では、孫文はその間どうしていたのか?
第二革命の失敗で日本に亡命していた孫文は東京で革命派の組織を再編した中華革命党を結成した。誤算もあった。長年の同志でありもっとも優秀な軍人でもある黄興がこの組織には参加しなかったのだ。その理由は過去の革命派の統制不足を反省した孫文らが新たな組織を立ち上げるにあたって、メンバーが総理となった孫文に絶対服従を誓うように求めたのに対し、黄興がそれを拒否したからと伝えられている。黄興はこの後第三革命では再び孫文と連携する。だが、その寿命は長く無く、第三革命の期間中に42歳で亡くなった。

第二革命第から第三革命にかけて日本亡命中の孫文について特筆すべき出来事と言えば、公人としてはこの中華革命党の結成だが、私人としては二番目の結婚がある。その相手は「宋家(そうけ)の3姉妹」の次女宋慶齢(そうけいれい、孫文逝去の後は1926年に中国国民党中央執行委員に就任した。1981年、「中華人民共和国名誉主席」の称号を授与された)であった。この2人の仲をとりもったのが孫文の盟友梅屋庄吉(長崎出身の豪傑商人)であり、すでに述べたように孫文宋慶齢が結婚披露宴を開いたのは日本の梅屋邸に於いてであった。

宋慶齢(1893~1981)は、中国上海を本拠とする浙江財閥の大富豪宋嘉樹(かじゅ)を父として生まれた。嘉樹は早くから孫文を財政的に支援しており、慶齢の姉の靄齢(あいれい)はキリスト教徒の父に従って早くから渡米し、その後はアメリカにおける孫文の革命活動を秘書として支えた。第二革命が失敗し孫文が日本に亡命すると靄齢も父と共に来日し秘書を続けたが、同じく来日していた実業家の孔祥熙(こうしょうき)と親しくなり横浜で結婚、代わりに妹の慶齢が孫文の秘書を務めるようになった。ちなみに孔祥熙儒教の開祖である孔子の直系の子孫と言われている。姉と同じく英語に堪能な慶齢は有能な秘書だったが、東京で革命運動を続けるうちに孫文が彼女に惚れ込んだ。問題は2人の年齢差が26歳もあったことと、孫文には親の命令で結婚した妻との間に子供もいることだった。当然彼女の両親は大反対である。ところが、梅屋庄吉の妻トクは苦労人で頭の良い女性でもあった。慶齢も孫文との結婚を望んでいることを確認すると、庄吉に2人の結婚に力を貸すように説得し、長年別居していた中国在住の妻子には手切れ金を手配して離婚を成立させた。これで2人が結婚するのになんの障害も無くなった。ただし、孫文の同志たちはこの「年の差婚」を認めなかった。当時の26歳差は、今なら40歳以上の差に匹敵するだろう。まさに「父親と娘の結婚」ぶなってしまう。しかし、日本の同志たちはそんなことは気にしなかった。1914年、2人は東京で結婚した。

  披露宴は11月10日、梅屋邸2階の大広間で行なわれた。仲人は庄吉夫妻である。孫文と慶齢がトクの酌で三三九度の杯を交わすと、犬養毅が祝福の謡をとなえた。このあと、頭山満の仲立ちで孫文と庄吉が義兄弟、慶齢とトクが義姉妹の杯を交わした。
       (『梅屋庄吉の生涯』小坂文乃著 ナガサキ文献社刊)

先に紹介したところだが、庄吉が孫文のために挙行した「たった1人の上映会」とこの「義兄弟の契(ちぎ)り」が、孫文ともっとも親しかった日本人は梅屋庄吉であると私が考える、「2つの理由」である。ただし、その後の日本はこの孫文との良好な関係を生かせず、首相となった犬養毅も軍人の凶弾に倒れた。頭山満の理想とした東アジアの共存共栄も実現しなかった。そして皮肉なことに大日本帝国は、慶齢の妹美齢(びれい)の夫となった孫文の後継者蒋介石が再建した中華民国を敵として、泥沼の戦争に突入していくことになる。