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ついに「長征」を宣言した習近平氏、米国との持久戦を覚悟
2019年6月4日 日経ビジネス電子版
5月20日、長征の出発地を訪れた習近平国家主席は「今こそ新たな長征に出なければならない」と国民に呼びかけた。
米中貿易交渉は行き詰まり、対立が激化している。米国との争いの短期決着は諦め、持久戦に持ち込むとの宣言とも取れる。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00019/053100056/
『世界史大図鑑』
レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行
長征は宣言であり、プロパガンダ隊であり、種蒔き機でもある 長征(1934年~1935年)
1933年秋、中国共産党は壊滅寸前だった。国民党が国の支配権を握り、中国南東部の江西省にあった共産党の拠点に大きな攻撃を仕掛けた。1934年10月、共産党は拠点を放棄し、国民党による包囲網を突破することを余儀なくされた。およそ8万人の兵士が6000キロメートル、368日間に及ぶとてつもない旅に出発した。これは「長征」として知られるようになる。
のちに指導者となる毛沢東に導かれた共産党員たちは、空からの爆弾や機関銃で襲撃され、地上でも国民党軍からしきりに攻撃を受けた。行軍は主として夜におこなう、敵に発見されにくくなるよういくつもの隊列に分かれて進んだ。
目的地までの道のりは、雲南省の山岳地帯や広大な荒野があった。中国北部の安全地帯にたどり着いて、共産党の新拠点を築くまでに多くが餓死し、はじめにいた8万人のうち、生き残ったのは8000人にすぎなかった。しかし、むしろこの偉業は苦難に対する勝利と見なされ、中国共産党の存続をたしかなものにした。
国の統一
1895年、中国は日本に軍事的大敗を喫した。第1次世界大戦中の日本による中国への攻撃を受けて、反日感情がふくれあがる。1919年にヴェルサイユ条約で、中国にあった元ドイツ植民地が日本の手に渡ると、大きな抗議の声があがった。そういうなかで、共産主義が支持され、1921年には中国共産党が結成される。国民党の躍進もあり、1920年代の半ばまでには国家統一に向けた動きがはじまった。
上海での大虐殺
1926年、蒋介石のもとで国民党は共産党と協力して北伐をおこない、地方軍閥に支配されていた領土を取りもどした。この遠征のあいだに共産党が力を増し、激しい対抗関係から1927年4月に上海で国民党が共産党に攻撃を仕掛ける事態となった。数えきれないほどの共産党員が捕らえられ、拷問を受ける。この大虐殺を皮切りに、長年にわたって共産党に対する弾圧がはじまり、党員たちは江西省の田舎に退いた。
生き残るための苦闘
長征のあと、中国共産党は北部で再編された。国民党と共産党は、1937年に日本が中国に侵攻するとしぶしぶ手を気まざるをえなくなった。1939年までに、北部と東部の大部分が日本に征服された。第2次世界大戦で日本が敗れたのち、国民党と共産党の緊張関係はふたたび激しくなり、1946年の内戦につながる。両軍がそれぞれ50万人以上の兵を動員した大規模な戦闘がつづいたのち、共産党が勝利した。1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国を建国する。
長征は驚くべき忍耐力を示す勲功となった。それは、生き残った者に深い使命感を与えるとともに、宿命的な革命闘争のリーダーとしての毛沢東のイメージを強めた。