じじぃの「歴史・思想_234_中国の行動原理・建国から毛沢東の死まで」

What is the Communist Party of China?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YiQYTGujW3Y

On the Beginnings of the Chinese Communist Party

September 7, 2019
Why did the Communist Party emerge, grow and eventually seize power in contemporary China? The Chinese Communist Party (CCP) has constantly instilled into the Chinese people’s minds that history has chosen the CCP, that the people have chosen the CCP, and that “without the CCP there would be no new China.”
https://www.followcn.com/on-the-beginnings-of-the-chinese-communist-party/

『中国の行動原理-国内潮流が決める国際関係』

益尾知佐子/著 中公新書 2019年発行

対外関係の波動――建国から毛沢東の死まで より

建国当初、中国国民党の恐怖から解き放された中国共産党は、アジアの社会主義大国を建国し、より良い世界を作っていこうという高揚感で満ちあふれていた。こうした指摘は、中国の多くの冷戦史研究者の見解に通底している。この時点で中国の指導者は、イデオロギー国益のどちらかを選ぼうとしたのではなく、その双方をしっかりと充実させていくつもりであり、それが十分可能と考えていた。
建国に先立つ1949年6月30日、『人民民主専制を論ず』と題した論文で、党中央委員会主席の毛沢東は、帝国主義社会主義の間の「第三の道はない」と主張し、ソ連への「一辺倒」政策を打ち出して、社会主義陣営の一員として国づくりを進めると明らかにした。
このとき、中国の指導者の一人、劉少奇(のちの国家主席)は、中国共産党中央代表団の団長として秘密裏にソ連を訪問し、ソ連スターリン書記長と会見する直前だった。「一辺倒」政策は、明らかにそれに備えて発表されたものである。
双方の会談では、その後の国際共産主義運動の展開方針が話し合われた。スターリン劉少奇に、ソ連はアジアの革命運動の状況に疎(うと)いため、中国共産党にこれをしっかり指導してほしいと要請した。ソ連が東欧、そして全世界のアック名運動の面倒を見る一方、アジアの兄弟党の支援は主に中国が担当するという分業が成立する。

国内政治が生んだ混乱

中国の冷戦史研究者――牛軍、沈志華、楊奎松、李丹慧など――が描く中国外交史は、国際的なやりとりに比べ、国内事情の記述がきわめて詳細である。世界銀行の推計によれば、中国の1956年のGDPは767億ドルで、世界のわずか3.6%を占めるのみ、中国は経済的には明らかに小国だった。人口では世界第1位で21.6%を占めたにもかかわらずである。そうした状況のなか、東西冷戦下、中国は米国だけでなくソ連とも対立し、あろうことか2つの超大国を敵に回していく。それほどまでに負担の重い国際環境のなかで、毛沢東は党内から自分の潜在的な敵を抹消することに心血を注いでいた。
中国の対外行動を検討するうえで、最高指導者の役割は決定的である。毛沢東は国際環境を意識していなかったのではない。むしろ彼は、国際情勢に強い関心を持ち、その動向に常に関心を払った。しかし同時に中国全体の家父長として、自分が国内政治の凝集力を握ることに固持し、自分の権力を脅かしうる存在に敏感に反応した。そのため毛沢東にとって、党中央の「息子たち」への対応は、実際は国際情勢より優先度の高い課題となる。だがそれゆえに、対外政策をめぐる綱引きは常に、国内政治をめぐる闘争の前哨戦として発生した。
さらに間の悪いことに、毛沢東時代の中国には、2種類の相反する対外原則があった。国際共産主義運動の推進と近代主権国家体制の擁護である。いずれも甲乙つけがたい重要な指針であり、それぞれに実務部隊が設けられていた。実務部隊の「息子たち」は、党中央のなかで毛沢東の権威強化が避けられない趨勢と見ると、自分がそれまで指示を仰いでいた上司の意向を無視し、毛が望んでいる(と思われる)政策を先取りする行動に出た。党内では毛沢東に迎合する勢力が台頭し、毛に完全には賛同できずにいた穏健な高位指導者たちをさらに追い込んだ。
こうして、毛沢東を頂点に発生した社会的潮流は、中国の政治構造のなかで拡大し、中国全体を呑み込んでいく。この国内的なうねりのなかで、中国の対外関係は、国際情勢とはほとんど無関係に、しかし不可逆的に混乱を深めた。特に中連部は、一部の指導者の政治的野心と組織全体の保身のために、近代主権国家体制に反する一連の対外行動と展開し、中国の国際的な信用を傷つける。
筆者の聞き取りによれば、中国の対外行動に問題があることを、現場の事務者はよく理解していた。しかし、彼らは党中央に意見できず、国内政治の波に流されてしまった。先述したように、中国の組織なかでは、ボトムアップの問題解決はきわめて難しいのである。
イギリス公使館が焼き討ちされ、それを知った毛沢東が介入するまで、中国は自ら築き上げてきた対外関係を自分で傷つけ続けた。中国が対外関係を安定化させ、国際的な信用を取り戻していくのは、毛沢東の死後、何年もかかった。
では、中国はどのように対外的混乱を修復していったのか。