じじぃの「科学・芸術_764_朝鮮支配・大韓民国臨時政府(独立運動)」

大韓民国国歌「愛国歌」 - Anthem of South Korea (Japanese)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=tw9lHwQm-Xs

「1919年建国」 揺れる韓国 「独立運動時が起点」文政権主張

2019年01月28日 【西日本新聞
●韓国建国を巡る論争
韓国の保守派と進歩派との間で続く歴史論争。保守派は、初代の李承晩大統領が大韓民国の樹立を宣言した1948年8月15日が建国に当たり、国際社会も承認したと指摘。朴槿恵前政権は「48年に大韓民国樹立」とする国定教科書の編集を進めた。
これに対し、進歩派は1919年3月1日に始まった大規模な抗日独立運動の中、同年4月11日に中国・上海に設立された大韓民国臨時政府が建国に当たると主張。大統領就任直後に国定教科書導入を中止した文在寅氏は2017年8月15日、日本の植民地支配からの解放を記念する「光復節」の演説で「国民主権は臨時政府樹立による大韓民国建国の理念となり、今日、私たちはその精神を受け継いでいる」と明言して、臨時政府樹立が建国に当たるとの考えを改めて表明した。一方、48年8月15日は政府樹立の日とする方針だ。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/article/482539/

李光洙――韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』

波田野節子/著 中央公論新社 2015年発行

『無情』の時代――名声獲得と三・一独立運動 より

1919年2月初めに上海に着いた李光洙は、港で友人の張徳秀と出くわした。日本に向かう彼に所持金を全部与え、李光洙は見送りの来ていた彼の仲間の家にそのまま転がり込んで、呂運亨ら政治青年たちが上海で結成していた新韓青年党の活動に加わった。彼らはパリ講和会議に代表として金奎植を派遣し、上海に臨時政府をつくる準備として本国、シベリア、日本に仲間を送りこんでいた。
     ・
やがて新韓青年党の呼びかけに応え、海外にいる独立運動の指導者たちが上海に集まる。4月11日、新韓青年党がこの日のために準備しておいたフランス租界の金神父路にある西洋住宅で、大韓民国臨時政府の樹立が宣言され、国務総理に李承晩、内務総長(内相)に安菖浩がともに不在のまま選出された。
李光洙は新韓青年党を離れ、政府機関紙『独立新聞』創刊の準備に入った。役割を終えた新韓青年党は1922年に解体する。
臨時政府の内務総長に選出された安菖浩は、5月末に上海に着くと旅の疲れで紅十字病院に入院した。自分と因縁が深いこの人物を、李光洙はすぐに見舞いに行った。
10年以上前、1907年に安菖浩が亡命先のアメリカから韓国に戻る途中で日本に立ち寄ったとき、中学編入の準備をしていた李光洙は彼の演説を聞いていた。そのあと韓国に戻った安菖浩は新民会を組織し、平壌に大成学校をつくって校長となる。そして、そこで彼の演説を聞いて感動した李昇薫が定州に五山学校を建て、中学を卒業する李光洙を教員として招聘したのである。李光洙が五山学校に赴任したとき、安菖浩はすでにアメリカに亡命していて会えなかった。いま上海で、李光洙はようやく安菖浩と知り合ったのである。
安菖浩は臨時政府に入ると、まず臨時政府の乱立を回避させるための内閣改造を行った。彼は主だったメンバーを上海に召集し、李承晩を大統領、李東輝を国務総理に選出させ、自分は国務総理代理になった。そして霞飛路の事務所に通いながら、長期的な独立計画である「独立運動方略」を作成し、臨時資料編纂会を立ち上げて民族運動の資料を編纂し、政府の機関紙として『独立新聞』を創刊した。
李光洙は彼を手伝って「独立運動方略」を作成し、資料編纂会の主任として独立運動の歴史を整理し、『独立新聞』の社長に就任した。この頃東京の一高を中退して上海に駆けつけた朱耀翰が、一緒に『独立新聞』の仕事に携わった。

                    • -

朝鮮史 (世界各国史2)』

武田幸男/著 山川出版社 2000年発行

植民地支配下の朝鮮 三・一運動 より

19年1月21日に高宗が死亡すると、日本による毒殺説が流れ、反日意識が高まった。3月3日に行われる高宗の葬儀に参列するために全国から多数の人々が集まる機会を利用して、3月1日にソウル鐘路(チョンノ)のパゴダ公園にて独立宣言書を朗読する方針が決定された。
3月1日になると、広範な民衆の示威運動の先頭に立つことを恐れた民族代表は市内の料理店に集まって、自分たちだけで宣言を朗読したあと、日本官憲に自首して逮捕された。しかしパゴダ公園に集まった数千の民衆を前に学生代表が独立宣言書を朗読すると、民衆はいっせいに「独立万歳」を叫んだのち、公園をでて数隊に分かれて市内を示威行進した。デモの隊列は急速に増大し、「独立万歳」の声が市内に響きわたった。あわてた総督府は龍山(ヨンサン)の兵営から軍隊を出動させて、示威行進を阻止しようとしたので、各地で衝突が起きた。
3月1日のうちに独立示威運動は平壌、宣川、義州、元山など北部各地においても起こされ、都市部から農村部へと急速に拡大し、3月中旬には全国におよび、3月下旬~4月上旬に最高潮に達した。

植民地支配下の朝鮮 国外の朝鮮人と民族運動 より

産米増殖計画の展開、数年おきに起きる干害などによって没落した農民は、農村を離れ、その一部は日本、満州へと流出した。日本在住の朝鮮人1920年には2万8000人であったが、30年には29万8000人となり、27万人の増加を示した。渡日してきた朝鮮人の多くは、土木事業、炭鉱、鉱山や紡績工場の労働者となった。当時の日本では資本主義の発展、都市化の進展にともなって、鉄道、道路、水力発電所などの大規模土木工事が増加していたので、多くの朝鮮人が低賃金の土木労働者として吸引されたのである。
     ・
満州への朝鮮人の移住もひきつづき増加し、満州在住朝鮮人は1930年には60万人に達したという。なかでも北間島の4県は、朝鮮人が多数を占めた。朝鮮人の多くは農業に従事し、米・大豆などを栽培したが、土地を所有できた者は少数で、多くの朝鮮人農民は朝鮮人や中国人の地主の土地を借りて耕作した。
満州は国外における独立運動の最大の拠点であった。三・一独立運動を契機に、間島の各地に武装独立運動団体が多数結成された。これらは独立軍と総称され、朝鮮北部に侵入し、日本軍・警察との交戦を繰り返した。独立軍の戦いが広まるのを恐れた日本は、1920年9月・10月に中国人馬賊を利用して北間の琿春圏城を襲撃させ(琿春事件)、これを朝鮮人が日本居留民を襲撃したと偽り、10月、第十九師団シベリア出兵軍などを間島に侵入させた(間島出兵)。金佐鎮が率いる北路軍政署と洪範図の大韓独立軍などが連合して、日本軍を北間島の和龍県青山里で撃破した(青山里の大勝)。日本軍は、その報復に北間島帯で約3000人の朝鮮人を虐待し、独立軍の北間島での活動は困難になった。
独立軍はシベリアに移動し、アムール川のアレクセーエフスク自由市(現在のスボボドヌイ)に集結した。
ところが1911年6月、同地に集結してい在露朝鮮人部隊のなかにおけるイルクーツク派と上海派との争いの結果、独立軍の一部と上海派の部隊が極東共和国軍の攻撃を受けて武装解除される事態が生じた(自由市事変)。
この後、独立軍の活動の中心地は南満州(西間島)や北満州に移った。1920年代なかばには独立軍の統合が進み、参議府、正義府、新民府が成立した。24年5月に鴨緑江視察中の斎藤総督が狙撃されると、日本は中国にたいして朝鮮人独立運動団体の取り締まりを強く要求し、25年6月に朝鮮人独立運動の取り締まりに関する朝鮮総督府奉天省協定(三矢協定)が成立した。これ以後、中国側(張作林政権)の取り締まり強化によって独立軍の活動は困難に陥ったが、参議・正義・新民の三府は統合をはかり、29年に国民府を結成した。
三・一運動後、多くの独立運動家が集結した上海も、国外における独立運動の拠点となった。

三・一運動のさなかの1919年4月、上海のフランス租界で大韓民国臨時政府が樹立された。

臨時政府は、シベリア、ソウルで結成された臨時政府を統合し、9月には李承晩を大統領、李東輝を国務総理に選出し、国内との連絡をつくり、機関紙『独立新聞』を発行するなど、活発な活動を展開した。しかし、臨時政府内部には、李承晩、安昌浩ら外交活動によって列強の保障をえて独立を実現しようとする勢力と、李東輝ら武装闘争によって独立を達成しようとする勢力との対立があり、21年には李東輝は国務総理を辞任した。23年に内紛収拾のために国民代表会議が開催されたが、臨時政府解体、新組織建設を主張する創造派と臨時政府維持を主張する改造派とが対立して、決裂した。この後、臨時政府に結集する努力は減少し、実質的には独立運動団体のひとつにすぎなくなった。