じじぃの「科学・芸術_765_朝鮮・解放と南北分断」

朝鮮戦争

世界史の窓
朝鮮は1945年8月15日、日本の植民地支配から解放されたが、東西冷戦が進行する中で、南北に分断されてしまった。
1948年に北には朝鮮民主主義人民共和国、南には大韓民国という別個の国家が成立し、北は社会主義体制をとり、南は資本主義体制をとるという二陣営が直接対立する場となった朝鮮半島で、1950年6月についに戦争が勃発した。南北いずれが先に仕掛けたが、議論があったが、現在は北朝鮮金日成が、中国革命に続いて朝鮮半島でも社会主義による統一国家の建設を目指し、武力統一をはかったものと考えられている。北朝鮮軍の侵攻に対して、韓国軍を「国連軍」の軍旗を掲げたアメリカ軍が直接支援し、さらには後半には中華人民共和国から義勇兵が北側に参戦し、内戦にとどまらない国際的な戦争となった。両軍は、第二次世界大戦後のもっとも深刻な戦闘を繰り返したが勝敗がつかず、1953年に北緯38度線で両軍が対峙したまま休戦協定が成立した。現在に至るまで完全な和平には至っていないのであり、東アジア情勢の最大の不安定要因となっている。
https://www.y-history.net/appendix/wh1602-001.html

朝鮮史 (世界各国史2)』

武田幸男/著 山川出版社 2000年発行

解放と南北分断 より

朝鮮人自身による独立政府樹立の試みが続くなかで、米ソをはじめとする連合国は、ただちに国家樹立に向かうことには否定的だった。
すでに1943年11月に発表されたカイロ宣言で、米・英・中3国の首脳は、大戦後に日本の植民地を剥奪する方針を明らかにしていた。しかし、カイロ宣言には「3大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて(in due course)朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」と明記された。つまり、朝鮮の独立は「やがて」もたらされるものであり、それまでは大国による信託統治のもとにおかれることが示唆されていた。
そして、1945年11月にモスクワで開かれた米・英・ソ3国外相会議で、信託統治案が具体化された。この案は、独立の前提として朝鮮民主主義臨時政府の樹立を考え、その前段階で米・ソ・中・英が5年を期限として信託統治をおこない、米ソ両軍司令官による共同委員会が助力を与えることになっていた。初めアメリカは、長期にわたる信託統治を想定していたが、ソ連は5ヵ年の年限と臨時政府の樹立を明記することを主張した。
モスクワ外相会議の内容が伝えられると、朝鮮ではただちに信託統治反対運動(反託運動)が広がった。とくに反対の中心になったのは金九を中心とする臨時政府や、金性洙の韓国民主党など、保守派のグループだった。そのなかには、即時独立を求める原則論から、ソ連主導の提案だがら反対するという戦術論まで、さまざまな立場が含まれていた。
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植民地期から活動していた共産主義者は、解放直後に朝鮮共産党を再建した。朝鮮共産党は1925年に創立され、弾圧と内部対立で四次にわたる結党、解党を繰り返したあと、28年にいったん壊滅していた。その後も再建の試みは続いたが、解放までに党組織や支持基盤を確立できず、一部の活動家が地下活動を続けているだけだった。しかし、解放とともに、共産党結成の動きが自然発生的に始まった。
南朝鮮では、植民地期に地下活動を続けていた著名な共産主義者である朴憲永を総秘書として、1945年9月にソウルで朝鮮共産党が再建された。しかし、幹部として名を連ねた人物にはソウルに不在の者も多く、実質的には朴憲永のグループが中枢を占めていた。朴憲永は三・一運動に参加したあと、上海に逃れて共産主義者となり、朝鮮共産党結成などでたびたび逮捕され、解放直前には光州の煉瓦工場に潜伏していた。
続いて、10月には朝鮮共産党北部朝鮮分局が結成され、金日成(キムイルソン)がはじめて人々の前に姿をあらわした。金日成平安南道大同郡に生まれ、西間島に移住後、中学から共産青年同盟の活動家となり、のち中国東北で抗日パルチザン部隊を指導した。やがて「満州国」建国後の日本の弾圧強化によってソ連領に逃れたが、解放後、ソ連軍とともに帰国していた。
結成当初の共産党は、右派民族主義者まで含めた民族統一戦線の結成をめざし、反ファシズム戦争を戦ったという点でアメリカの役割も評価していた。しかし1946年にはいると、金日成アメリカ軍政と、その下にはいった李承晩や金九への批判を強めた。その一方で、北朝鮮を統治する人民政権の骨格が形成され、46年2月には中央行政機関として北朝鮮臨時人民委員会が組織され、委員長に金日成、副委員長に金科奉が就任した。
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非合法化された南朝鮮労働党は、1948年2月から単独選挙阻止闘争を各地で展開したが、厳しい弾圧を受けていた。とくに済州島では、北朝鮮から逃れてきた反共思想の強い青年が送り込まれ、警察とともに厳しい弾圧をおこなったために、住民のあいだに不満が高まっていた。住民側は4月3日に武装闘争にはいり、南朝鮮労働党の影響を受けた国防警備隊の一部も住民側についたため、アメリカ軍政庁は本土から警備隊を増派して全面的な軍事衝突が始まった(四・三蜂起)。衝突は大韓民国建国後も続き、5万人以上の死者をだして鎮圧された。
結局、5月10日にUNTOKの監視下で南朝鮮の単独選挙が実施され、済州島を除く全域で198名の国会議員が選出された。憲法制定議会は憲法を公布したあと、初代大統領に李承晩を選出した。そして、1948年8月15日に大韓民国(韓国)の樹立が宣言された。李承晩の最大のライバルだった金九は、建国後の49年6月に暗殺された。
朝鮮問題の国連への上程と、第二次米ソ共同委員会の決裂を受けて、北朝鮮でも単独国家樹立へ向けた動きがいちだんと進展した。1947年12月には新しい貨幣が発行され、従来の朝鮮銀行券の使用は禁止されて、南朝鮮と異なる貨幣制度に移行した。48年2月には、朝鮮人民軍が創設された。
そして1947年11月には、朝鮮臨時憲法制定委員会が発足して憲法草案作成を開始し、48年7月の人民会議で朝鮮民主主義人民共和国憲法の施行が決定された。これに基づいて国会にあたる最高人民会議が選出され、9月8日に憲法を正式に採択した。翌9月9日には朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の樹立が宣言され、金日成が首相となった。