じじぃの「科学・芸術_136_毛沢東・日本人戦犯裁判」

日本と中国−2 満州国の建設 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZH2zwWu68kE
撫順戦犯管理所

新中国による日本人戦犯の思想改造は世界の奇跡 2014-08-31 CRI.CN
新華社通信は新中国による日本戦犯への思想改造をめぐり、8月31日に瀋陽からの署名記事(徐揚記者)を配信しました。その主な内容を以下のよう紹介します。
1950年、成立直後の新中国はソ連から日本人戦犯約1000人を受け入れ、これら戦犯は撫順戦犯管理所に収容されていました。中には、偽満州国の事実上の最高指導者であった武部六臓総務庁長官や、数多くの無人区作戦を進めてきた日本軍第117師団の鈴木啓久師団長も含まれていました。
撫順戦犯管理所跡地陳列館の張継承元館長は「管理所はこれら戦犯にとって刑務所だけでなく、"鬼"のように瞬きもせずに人を殺していた彼らを戦争に反対し、平和を愛する新しい人間に変えていく上での大学校でもあった」と話しています。
http://japanese.cri.cn/881/2014/08/31/145s225875.htm
中国戦犯(中共戦犯)の「洗脳」について(2)―ある抑留者の「手記」より―
毎日毎日幾度となく繰り返されるこの「認罪」、この「反省」、寿命が縮まるとはこの事でしょう。それもその筈、何時自分が槍り玉にあがるか分からないからです。
万遍ともなく繰り返される「学習」「討論」「認罪」、・・・〉
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/sennou/sennou2.html
毛沢東の対日戦犯裁判 - 中国共産党の思惑と1526名の日本人』 大澤武司/著 中公新書 2016年発行
戦犯の政治利用――日本への秋波 (一部抜粋しています)
1949年6月30日、中華人民共和国の成立に先立ち、毛沢東は「向ソ一辺倒」を新たな国家の外交方針とすることを宣言した。海外に滞在した経験を持たない毛沢東が10月の建国直後、3ヵ月近く北京を離れ、モスクワで中ソ友好同盟相互援助条約の終結交渉に臨んだことは、社会主義陣営の結束の強さをあらためて世界に印象づけた。
東西冷戦が深まるなか、1950年6月25日、北朝鮮の若き指導者金日成(キムイルソン)が「祖国統一」を目指す解放戦争を発動し、南進を開始した。
当初、北朝鮮軍は電撃的な信仰を行ったが、その横っ腹を衝くマッカーサーの仁川上陸作戦が成功すると、米韓軍を中心とする国連軍が北緯38度線を突破して北上し、中朝国境付近にまで達した。毛沢東は建国から間もない自国の安全を確保するため、さらには「唇歯」の関係にある北朝鮮を支援するため、国家の軍隊という体裁をとらない中国人民義勇軍を組織し、アメリカとの軍事対決に踏み切った。
朝鮮戦争の勃発を経て、日本の講和問題は、アメリカ主導による社会主義国を除いた片面講和に大きく旋回する。中国共産党終戦直後から対日講和会議に参加することを主張し、建国後も自らが中国の正統な代表政権であるとして、日本との講和条約終結する権利があると訴えていた。だが、英米の協議に基づき、結果的にサンフランシスコ講和会議には「ふたつの中国」のいずれもが招かれなかった。
結局、日本政府はアメリカからの外交圧力もあり、中国全土の3%ほどしか実行支配していない中華民国政府と、サンフランシスコ講和会議が発効するのと同じ日となる1952年4月28日に日華平和条約を集結し、国際社会に復帰した。
日本との早期の講和が遠のくなか、毛沢東は「以民促官(民を以って官を促す)」、すなわち民間交流の積み上げを通じて日中関係を前進させ、日米離間や日本の中立化、さらに最終的には日中国交正常化を目指す新たな対日外交戦力を展開する。
このような戦略の根底には「二分論」と呼ばれる考えがあった。
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中国共産党の党員は、革命を成就させた経験を通じて高い政治的意識を持ち、党中央に対する服従は絶対に近いものがあった。そこから不満が強く漏れていたのである。周恩来ら指導者たちは、中国全土に根強く残る日本に対する「人民の義憤」を想定しながら、「寛大」な処理方針に対する広範な合意を取りつけるため、公開の場での合意獲得を進めていった。
1956年3月14日に開催された中国人民政治協商会議(第二期全国委員会常務委員会第十九次拡大会議)で最初の公開の議論が行われた。ここでは抗日戦争時期に日本人捕虜政策を指揮していた公安部の羅瑞卿部長、そして譚政文副検察長がそれぞれの立場から報告を行い、周恩来の総括報告を経て、中国人民政治協商会議のメンバーである民主党派や無党派の委員たちの意見を求めた。
羅瑞卿は中央決定の要点を「ひとりも処刑しない(一個不殺)」「50名余りの重大な戦犯に対しては法に基づき刑を下す(依法判刑)」「大多数の戦犯は寛赦釈放する」という3点にくわえて、このタイミングで日本人戦犯を処理する必要については、建国直後から展開してきた反革命鎮圧運動が成功をおさめ、国内の治安が安定しつつあることや、終戦から時間が経過したことで「人民の欺瞞」が緩和してきていること、さらに戦犯自身の認罪が進んでいることなどを挙げた。
そしてなによりも、このような戦犯処理は「日本軍国主義者にたいする厳重な警告であり、我々と日本人民との団結に有利であるとともに、日本人民の平和獲得や民主闘争を支援する役割を持ち、アジアの平和維持や日中人民の友好協力、アメリカ侵略集団やその追従者を孤立させるのにも有利である」と語った。
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参観学習の第1班は平頂山事件記念館を訪れ、最後に大広間に集められたところで、両親と祖父と3歳の弟を目の前で殺された方素栄が、事件の真相を語ったのである。戦犯たちは予期しない強烈な襲撃になす術がなかったという。
続く北京参観でも、戦犯たちは「我々は中国人民と世界人民の憤怒の前におり、道義的にはもちろん、法律的にも正義の懲罰を受けるのは当然のことである」と述べ、さらに南京大虐殺記念館武漢の「虐殺現場」に向かう際には北京の駅頭で宮崎弘(第39師団機関銃中隊長、撫順戦犯管理所に監禁された)が戦犯全員を代表して中国人民に対する謝罪を述べるなどの行動に出た。
また、南京参観では、日本軍による南京大虐殺の実態を関係者から聞かされると、戦犯全員が「断固として帝国主義に反対し、侵略戦争に反対し、徹底的に中国人民に対して謝罪を行い、中国人民による正義の審判を受ける」という近いの言葉を語るなど、「低頭認罪」を表明する旅となった。
1ヵ月に及ぶ参観学習の結果、それまで反動的で、「認罪服法」を拒否していた戦犯たちも、自らの認罪態度の不誠実さを強く認識するようになった。また、中共中央は、「謝罪の旅」として、「参観学習」を新聞などの媒体を通じて広く報道し、日本人戦犯の思想「改造」の進展を中国民衆に伝え、いまだに根強い「人民の義憤」の緩和を目指した。