じじぃの「科学・芸術_763_朝鮮支配・三・一運動(独立運動)」

[歴史の中の梨花DNA#1] 3.1万歳運動の花、柳寛順

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ijtZFmI4Vfs

三・一運動 (三一節)

プライムニュース 「米朝“決裂”韓国は? 文大統領が描く次の手 出口見えない日韓関係」

2019年3月6日 BSフジ
【キャスター】斉藤舞子、松山俊行 【ゲスト】小此木政夫慶應義塾大学名誉教授)、ホンヒョン(統一日報論説主幹)、林恩廷(立命館大学助教
先月27、28日にベトナムハノイで開催された2回目の米朝首脳会談。非核化交渉を巡っては、トランプ大統領金正恩委員長のトップ外交をもってしても、合意文書に署名できず、結果的にもの別れに終わった。
こうした中、日本による朝鮮半島統治に抵抗した3・1独立運動から100周年にあたる1日、文大統領は演説で「親日清算」を唱いながらも、未来志向の日韓協力を呼びかけた。文政権は北朝鮮や日本との関係について、今後どのような戦略を描いていくのだろうか?
文在寅大統領の「次の一手」どうなる? 対日政策
文在寅大統領が1日に行われた「三・一独立運動」の100周年記念式典で、日本の朝鮮半島統治に抵抗し「当時、7500人の朝鮮人が殺害された」と述べたことが、日本国内で問題視されているが、この死者数は韓国の政府機関が先月公表したばかりの調査数値とも、大きくかけ離れている。
林恩廷、「こういった数字の論争は南京など世界中のいろいろな国々でありえる話。文大統領は数字が目的ではないと思う」
小此木政夫、「数字は正しいかどうかは別にして韓国国内では有力な説の1つ。朴殷植の『独立運動の血史』がもとになっている。だから大統領はこれを出した。これを定説のように出すのはどうかと思う」
ホンヒョン、「学者たちがこれを最近研究して根拠がないと結論づけた」
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d190306_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d190306_1

「1919年建国」 揺れる韓国 「独立運動時が起点」文政権主張

2019年01月28日 【西日本新聞
●日韓関係 土台失う恐れ 新潟県立大教授(比較政治) 浅羽 祐樹氏
1919年に中国・上海で設立された「大韓民国臨時政府」は、「領土と住民に対して実効支配を及ぼす政府の存在」という国家の条件を満たしていない。臨時政府を支援した中華民国でさえ国家として承認しなかった。それを大韓民国の建国とする文在寅政権の考え方には無理がある。
本来、国家がそれぞれの「建国」をどう位置づけるのかは内政問題だ。やっかいなのは、文政権の歴史観が対日政策に直接影響していることだ。10年から45年までの日本統治は「強制占領」にすぎず、不法である。この理解に基づき、65年の日韓基本条約で互いがぎりぎりで歩み寄った「もはや無効」という決着を、「そもそも無効」として、一方的にご破算にしようとするようにも見える。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/article/482539/

三・一運動

世界史の窓
日本の朝鮮植民地支配は1910年の韓国併合によって完成し、以後は朝鮮総督府による武断政治が行われていた。
1919年3月1日、ウィルソンの「民族自決」の原則に期待し、日本の植民地支配を世界に訴え、独立宣言を発表してパリ講和会議に請願しようとした孫秉煕ら33名が日本の官憲に逮捕された。
彼らを支持した学生や民衆が数千名、京城のパゴダ公園に集まって独立宣言を読み上げ、「朝鮮独立万歳」を叫んだ。日本の朝鮮総督府は軍隊と警察で弾圧したが、動きは全土に拡がり5月まで断続的に繰り返され数千人の死者、5万人近い逮捕者が出た。日本には単なる騒擾事件としてのみ伝えられて万歳事件といわれ、独立運動としての詳細は報道されず、日本国民もほとんど知ることはなかった。
しかし政府と植民地統治当局である総督府は植民地統治姿勢を転換せざるを得ないことを知覚し、武断政治を文化政治に転換させるという対応をした。また同年に上海で李承晩らが大韓民国臨時政府を結成し、朝鮮の独立運動は海外を拠点に続けられることになった。
https://www.y-history.net/appendix/wh1503-027.html

朝鮮史 (世界各国史2)』

武田幸男/著 山川出版社 2000年発行

植民地支配下の朝鮮 三・一運動 より

1918年11月に第一次世界大戦終結して、19年1月よりパリで講和会議が開催されたが、これに先立って18年1月にアメリカ大統領ウィルソンは民族自決主義を含む14ヵ条を提唱していた。上海の新韓青年党は金奎植らをパリ講和会議に派遣し、独立請願書を提出したが、列強には無視された。在米朝鮮人の李承晩(イスンマン)らを代表として講和会議に派遣しようとしたが、アメリカ政府に出国を拒否された。東京の留学生も18年末から動き出し、19年2月8日に独立宣言書を発表し、続々と帰国し始めた。
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19年1月21日に高宗が死亡すると、日本による毒殺説が流れ、反日意識が高まった。3月3日に行われる高宗の葬儀に参列するために全国から多数の人々が集まる機会を利用して、3月1日にソウル鐘路(チョンノ)のパゴダ公園にて独立宣言書を朗読する方針が決定された。
3月1日になると、広範な民衆の示威運動の先頭に立つことを恐れた民族代表は市内の料理店に集まって、自分たちだけで宣言を朗読したあと、日本官憲に自首して逮捕された。しかしパゴダ公園に集まった数千の民衆を前に学生代表が独立宣言書を朗読すると、民衆はいっせいに「独立万歳」を叫んだのち、公園をでて数隊に分かれて市内を示威行進した。デモの隊列は急速に増大し、「独立万歳」の声が市内に響きわたった。あわてた総督府は龍山(ヨンサン)の兵営から軍隊を出動させて、示威行進を阻止しようとしたので、各地で衝突が起きた。
3月1日のうちに独立示威運動は平壌、宣川、義州、元山など北部各地においても起こされ、都市部から農村部へと急速に拡大し、3月中旬には全国におよび、3月下旬~4月上旬に最高潮に達した。各地でキリスト教徒、天道教徒、学校教師、学生などが運動の中心となり、市日(定期市の開かれる日)を利用して集会が開かれ、示威行進がおこなわれることが多く、1ヵ所の示威運動参加者は数百から数千名におよんだ。こうして全国232府郡島のうち212府郡島に蜂起がおよび、約200万人が参加するにいたったのである。また独立示威運動は沿海州、間島などにも広がった。

この大規模な独立運動三・一運動と称される。

運動の形態は多様であり、独立宣言書や新聞・檄文の配布、街頭演説、集会、示威行進、山上での篝火(かがりび)を焚く示威などのほかに、都市部では労働者のストライキ、商人の撒市(閉店ストライキ)、学生の同盟休校がおこなわれた。農村部を中心に、憲兵駐在所、警察機関、郡庁、面事務所、郵便局、裁判所などに押しかけて投石したり、庁舎を破壊し、土地台帳、徴税台帳や書類、器物を焼却する行動が続出した。また平和的な示威行進にたいして軍隊が出動して武力弾圧を重ねたこともあって、農村部では棍棒、鎌、鍬、斧、瓦礫、竹槍などをもって日本官憲と闘う暴力的闘争もあらわれた。
総督府憲兵、警察、軍隊を出動させ、4月には日本から歩兵6個大隊の増派をえて兵力を増強し。各地で武力弾圧を加えた。京畿道水原郡堤岩里では住民をキリスト教会に監禁して射殺し、さらに放火して三十数名を虐殺した。逮捕者には残虐な拷問が加えられ、たとえば忠清南道天安郡並川の示威運動に立った女学生柳寛順(ユ・グァンスン)は、逮捕されて受けた拷問がもとで獄死した。勇敢に闘った彼女は、朝鮮のジャンヌ・ダルクと讃えられることになった。

朴殷植の『独立運動の血史』によれば、朝鮮人の犠牲者は3月から5月までのあいだに死者7509名、負傷者1万5850名、逮捕者4万6306名という多数にのぼった。

独立示威運動は翌年3月までに繰り返されたが、日本軍の増強と分散配置に基づく武力弾圧体制の強化によって、5月以降には下火になっていった。沿海州では出兵中の日本軍とロシア自衛派、間島では日本領事館警察や中国軍・警察によって弾圧が加えられた。