高校生の支那事変入門 後篇 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=IZ3vZl4weEI
岡村寧次
岡村寧次 ウィキペディア(Wikipedia) より
岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年(明治17年)5月15日 - 1966年(昭和41年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。
支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任し、官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。
燼滅作戦 ウィキペディア(Wikipedia) より
燼滅作戦(じんめつさくせん)とは、日中戦争(支那事変)中に日本軍の陸軍、特に北支那方面軍などが1940年8月以降、中国華北を中心に、抗日ゲリラ対策として抗日根拠地へ行ったとされる掃討作戦であるとするプロパガンダである。
北京語では「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」の接尾文字「光」をとって三光作戦または三光政策と呼ばれている。主に共産党の八路軍根拠地に対して行われたとされる。ただし、日本軍には「儘滅作戦」や「三光作戦」、「三光政策」といった作戦名はなかった。
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『マスコミより確かな 習近平の言い分』 孔健/著 三五館 2015年発行
中国人がいまでも憎む8人の日本人 より
いまでも中国人が許すことのできない歴史上の日本人がいる。すべて戦争に絡んだ人物だ。雑誌の特集ネタにもなっている。
・伊藤博文
・大山巌
・昭和天皇
・東條英機
・岡村寧次
抗日戦争時、「殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くす」という、主に共産党の八路軍根拠地に対して行なわれた三光作戦の司令官。
・谷寿夫
・石井四郎
・土肥原賢二
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『毛沢東 日本軍と共謀した男』 遠藤誉/著 新潮新書 2015年発行
毛沢東と蒋介石、岡村元大将を取り合う より
毛沢東がなんとしても岡村寧次に訪中してほしかった理由は、岡村寧次が蒋介石と組んで大陸奪還を企んでいることを知っていたからだ。蒋介石と何応欽の厚情に感動した岡村寧次は、日本帰国後、蒋介石のために「白団(パイダン)」という軍事顧問団を結成した。
岡村寧次が帰国したのは1949年2月4日朝で、上海の港を出たのは1949年1月30日。敗戦側の総司令官が無罪となって帰国するまでには、アクロバット的な蒋介石の工夫と経緯がある。
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1948年、日本では4月を過ぎても東京裁判が終わらず、中国の軍事法廷では多くの元日本軍戦犯が死刑に処せられ、終末に近づきつつあった。これ以上、岡村の裁判を延ばすわけにいかず、7月8日、何応欽はついに岡村の戦犯としての裁判を始めるところに追い込まれた。8月14日、岡村は軍事法廷に出頭し、戦犯監獄に入監した。ところが、ここでまた持病の心臓器外収縮発作が起こり、仮釈放となって緊急治療。そうこうしている内に東京裁判が終わった。
そこでようやく蒋介石は中国における軍事裁判で岡村に「無罪」を言い渡されるのである。岡村の対支総司令官着任は1944年11月で、「南京大虐殺」に関わっておらず、その責任者はすでに死刑にしている。岡村は敗戦後は蒋介石の命令に従い、元日本軍に即時停戦を命じ、すべての武器や青酸施設を国民党軍側に渡すべく懸命に努力したというのが理由だった。
公判が終結すると法廷内は騒然となり新聞記者がつめよせたが、岡村を裏口から脱出させ、港につけてあったアメリカ船舶ジョン・W・ウィークス号に乗船させたのだった。船には監視としてトンプソン大佐以下数百人が乗りこんでいた。
毛沢東は戦犯第1号として岡村を指名していた。このとき国民党の李宗仁・代理総統は蒋介石と国民党を裏切り、岡村の身柄を引き渡すことを条件として中共との和議を進め、岡村の再逮捕を命じていたのである。
ジョン・W・ウィークス号の日本人船長が「東京のラジオ放送によれば、中共は国民政府に対し和平条件の1つとして岡村を引き渡すべしと要求している」ことを岡村に告げたとき、船はすでに中国領海外にいた。間一髪だった。
それにしても蒋介石は、なぜここまでして岡村を守ったのだろうか。
それは友情だけでなく、岡村の大将としての軍事能力を高く評価していたからだ。
蒋介石は日中戦争中、ソ連やアメリカが派遣してくる軍事顧問に激しく苦しめられている。どの国の軍事顧問も自国の利益ばかりを考え、少しも中華民国の利益など考えていない。ソ連にはスターリンがおり、共産圏拡大しか考えていない。アメリカのルーズベルトはコミンテルンのスパイに懐柔され、これも中共のことしか考えていない。
蒋介石が望んでいたのは、「どの国からも支配されない独立国家、中国」であった。このままでは中国は共産圏の属国になるだけだ。そうなれば孫文の夢はかなえられないし、自分はいったい何のためにここまで苦難を乗り越えてきたのかと慙愧(ざんき)にたえなかった。
その点、岡村は違う。彼は本気で自分(蒋介石)を尊敬し、感謝してくれている。彼の作戦能力の高さは、日中戦争最終段階における戦い方でわかっている。おまけに彼は敗軍の将だ。いまさら中国支配を考えるはずがない。
一方、毛沢東は日中戦争中に蓄えていた戦力を一気に発揮して、ソ連が抑えている「満州国」へ向けて突進し、蒋介石の命令に従わず北東へ向かって進軍して日本軍の武装解除を各地で行ない、武器弾薬だけでなく航空機の製造工場までをも接収し、元軍人と技術者を中共側のものにしてしまった。
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このような状況にあれば、台湾に逃れた蒋介石が「大陸奪還」を目指して岡村寧次に支援を頼んだとしても、不思議ではないだろう。
舩木繁は『岡村寧次大将』のエピローグでつぎのように書いている(345頁)。
帰国後、岡村大将は、蒋介石総統の要請を容れ、政治・経済的な問題を抜きにして、ただ終戦時の恩義に報いるという名目で、昭和二五年(一九五〇)二月、富田直亮少将を長とする十九名の陸軍参謀を台湾に送った。「白団」と称せられるこの軍事顧問団は、以後十五年間続き、団員の数ほ延八十三名に達した。