じじぃの「科学・芸術_193_中国・アヘン戦争」

ヨーロッパの中国進出①アヘン戦争 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=gI09NoCU7ZM
アヘン館



アヘン戦争の原因と結末
1840年に始まった中国の清とイギリスとの間の戦争。この戦争は、麻薬であるアヘンが原因となったため、アヘン戦争と呼ばれています。約2年続いたアヘン戦争は、イギリスの勝利で終わり1842年、清は南京条約を結ばされました。
http://www12.plala.or.jp/rekisi/ahen.html
『中国の歴史を知るための60章』 並木頼壽編,杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行
アヘン戦争南京条約 (一部抜粋しています)
中国、さらにはより広く東アジア文明圏の近代のはじまりをどの時点に求めるかをめぐっては、さまざまな議論がある。古く10世紀、宋の時代に中国に商業都市が出現したころに、東アジアの近代が出現したとする説もあれば、個人が自立せず権利・義務の関係が曖昧な東アジア社会は、いまだ近代には到達していないとする論もある。また、この種の議論では「近代」と「近世」とのふたつの用語が錯綜し、その関係いかんも問題となる。これらはみな「近代とは何か」という問いにつながる問題であり、容易に結論は出せない。しかし、いずれの立場をとるにせよ、1840年アヘン戦争が、中国のひいては東アジア全体の歴史に絶大なる影響を与えたことじは、だれしも否定できぬだろう。アヘン戦争の結果、中国はイギリスとの南京条約をはじめとして欧米列強と一連の条約を終結することとなり、欧米列強によって作られた国際秩序と経済関係のなかに引き込まれてゆくことになる。これを期に、東アジア伝統の国際秩序=冊封(さくほう)体制はほころびを見せはじめる。
アヘン戦争といっても、その実はアヘンをめぐる戦いではなかった。その遠因は茶であり、戦争を仕かけたイギリスの目的はアヘンとは別のところにあった。
運命が人の生涯を支配すると思われた中世から、努力によって自己の人生を切り開くべしとする近代へと西ヨーロッパ社会が移り変わるにともない、それまでの酒に代わって、もともとヨーロッパにはなかった茶やコーヒーが新しい生活にふさわしい飲み物として好んで飲まれるようになる。とくにアングロ・サクソン系の社会では、喫茶がスマートな生活スタイルとして流行した。イギリス系東インド会社は、中国から毎年多量の茶を買いつけていた。現在、紅茶の産地として知られるインドやスリランカはまだ茶の生産をはじめておらず、日本も鎖国中であったから、19世紀前半まで茶は事実上中国の独占商品であった。この貿易において、当初イギリスは中国に売り込むこれといった商品をもたなかったから、茶の対価はおもに銀で支払われた。この片貿易を解消するためにイギリスが持ち込んだ商品が、インド産のアヘンであった。
イギリス東インド会社は1600年、女王エリザベス1世の時代に設立された国策会社で、イギリスの東洋貿易の独占権を付与され、独自に軍隊をもち、支配した地域では行政権・警察権をもった。イギリスによるインドの植民地化は、この東インド会社の手によって進められていった。東インド会社は、植民地化したインドのベンガル地方で農民いケシの栽培をおこなわせ、そこで生産したアヘンを密売商人に卸して中国の広州の港に持ち込ませた。ケシの原産地はインドから西アジア一帯といわれているが、古くより東は日本から西はヨーロッパまで広い地域で栽培され、鑑賞用、食用、燃料、建築素材として利用された。アヘンの薬効、毒性も古くから知られていたが、アヘン中毒が社会問題となるようなことは前近代社会ではあまりなかった。
しかし、東インド会社の手によって組織的に大量生産されたアヘンが、清朝も後半期に入り、繁栄にかげりがみえはじめていた中国社会に持ち込まれると、たちまち大流行しはじめた。このため茶貿易によって流入していた銀が、アヘンの密輸入によって流出しはじめ、1830年代になると流出量が流入量をを上まわるにいたった。当時の中国は銀本位制で、税額は銀の量によって決まっていたから、銀流出による銀価格の上昇は税負担の上昇を意味し、民衆に重い税負担を強いることになり、多くの社会問題を引き起した。
ときの皇帝であった道光帝は、彼自身一時アヘン中毒であったが、みずからのアヘン中毒を克服する一方、アヘン厳禁論者の林則徐(りんそくじょ)を欽差大臣として広州に派遣しアヘン密輸の取り締まりに乗り出した。この林則徐による厳しい取り締まりに対し、イギリスが軍隊を派遣することによって、アヘン戦争が引き起こされる。
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南京条約は、中国が外国と結んだほとんどはじめての条約であった。その内容は、香港島の割譲、五港開港(広州、厦門(アモイ)、福州、寧波(ニンポー)、上海)、公行(コーホン(外国貿易に対する独占権をもつ商社)制度の廃止、イギリスにたいする戦費賠償からなっている。さらに付属の条約で、協定関税、領事裁判権最恵国待遇が規定されたが、これらはいずれも中国側にかんしてのみの規定となっており、これが不平等条約といわれる所以である。