The Attack On Pearl Harbor - December 7, 1941 動画 YouTube
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トラ・トラ・トラ! 予告編 動画 YouTube
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Pearl Harbor 1941
『アメリカ人の歴史Ⅲ』 ポール・ジョンソン/著、別宮貞徳/訳 共同通信社 2002年発行
真珠湾攻撃 (一部抜粋しています)
11月20日、和平案がワシントンに向けて送られた。アメリカが100万トンの航空燃料を売却するならば、日本は全軍を南部インドシナから北部インドシナに引き上げると約束していた。フランクリン・D・ローズヴェルト(FDR)は国務長官コーデル・ハル(1871〜1955)にこの提案をまじめに受け取るよう促し、みずから鉛筆で返答の下書きをしたためた。その写しがウィンストン・チャーチルと蒋介石に回されたが、ふたりがふたりとも強い異議をとなえたため、返答はついに送られに終わった。そうこうしているうちに、さらに日本軍がインドシナに上陸した、という知らせが6日後ワシントンに届くと、FDRは「相当かっとなった」。これはハルの言葉である。日本はただちに中国とインドシナから撤退せよと要求する。有無をいわせぬノートがアメリカから発せられた。日本の関係当局はこれを侮辱とみなして、急遽先制攻撃の準備に取りかかり、これがついには真珠湾奇襲へといたるのである。おそらく、1942年まで日本とアメリカの交渉がつづき、戦争となることなく冬が終わっていれば、戦争は怒らずにすんだかもしれない。春になっても、ナチスはモスクワを奪取することができず、ロシアがこの戦いから脱落しないことは明らかだったから、日本もこれさえ見ていれば枢軸国と運命を共にするのを思いとどまったのではなかろうか。
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真珠湾攻撃は戦術的には完璧な奇襲といえたが、案に相違して、戦略上の成果はわずかなものだった。12月7日(日曜日)午前7時55分、日本機が急襲をかけ、1時間後、第二次攻撃が加えられた。日本機は29機を除いて全機が無事9時45分までに空母に帰還し、損害といえる損害もなく全軍が帰途についた。アメリカはこの攻撃によって、全空軍力の半分が破壊され、戦艦8隻、駆逐艦3隻、巡洋艦3隻が戦闘不能の憂き目にあい、戦艦オクラホマとアリゾナが完全に破壊された。戦死した軍人は2323人におよんだ。これらの戦果は当初ははなばなしいものに思われ、アメリカの世論を怒らせ燃え上がらせるのにひと役買っている。しかし、軍艦のほとんどは損傷を受ける、浅瀬に沈んだだけである。熟練乗組員も大部分が脱出していた。軍艦はすぐに引き上げられて修復を施され、そのほとんどが現役に復帰して主要な作戦に参加している。旧式の戦艦よりはるかに重要な空母はすべて航海に出ていたが日本軍司令官、南雲抽象は燃料が少なすぎると判断し、あえて捜索に向かうことはなかった。爆撃機は海軍の石油貯蔵タンクも潜水艦基地も破壊することができず、今では海戦のかぎとなる兵器、潜水艦と空母はただちに燃料の再補給を受けて作戦行動に移ることができた。
真珠湾攻撃の戦果は限られたもので、正式に宣戦布告する前に、合衆国のような道義を振りかざす強大な国を騙し討ちにするという政治的危険を冒したにしては、その軍事的見返りは哀れなほど小さかった。アメリカの反応は、日本の大使から日曜日の午後2時20分、覚書を手交されたとき、コーデル・ハルが述べた回答につくされている。前もって奇襲についてくまなく知らされていたハルは、すでに予行演習を済ませ、今ではあまりにも有名な、この簡潔な断罪を言い渡した(かつてテネシー州の判事をしたことがあった)。「私は50年にわたる公的生涯を通じて、かくのごとき恥知らずな虚偽と歪曲に満ちた文書は見たことがない。かくのごとき途方もない虚偽と歪曲を口にしてはばからない政府が、この地球上に存在するとは今の今まで想像だにできなかった」。こうして、それまでの事態を対岸の火事のように見ていたアメリカ、国論の分裂や臆病な指導者に手足を縛られ何もできなかったアメリカが、即座に団結し、怒りにふるえ、猛りくるった力を残らず投入して総力戦を戦う覚悟を決めていた。翌週、アドルフ・ヒトラーが無謀にもアメリカに宣戦を布告すると、この途方もない怒りがそのままヒトラーの国にも向けられた。ローズヴェルトは名文句を編み出し、まず手始めに、上下両院合同会議に向けた演説の中で、12月7日を「汚名とともに語りつがれる日」と宣言した。
日本が東南アジアを併合しフィリピンを占領する計画は、何ほどかの幸運に恵まれ、連合国側のつたない指揮にも助けられ、成功裏に遂行された。しかし、進撃はそこまで。インド侵略も、オーストラリア占領も、アリューシャン列島伝いの合衆国攻撃も真剣には試みられなかった。そうこうするうちに、太平洋上で初めてのつまずきが日本を見舞う。