じじぃの「人の死にざま_779_荒畑・寒村」

荒畑寒村
http://tamutamu2011.kuronowish.com/arahatakannsonn.htm
荒畑寒村 ウィキペディアWikipedia)より
荒畑寒村は、日本の社会主義者労働運動家・作家・小説家。元衆議院議員。本名は、勝三。
【来歴】
神奈川県横浜市永楽町の横浜遊郭内で生まれる。
幼少期を現在の横浜市港南区野庭ですごす。横須賀の海軍工廠に勤務する中で労働運動に参加。社会主義者幸徳秋水堺利彦らが発行する週刊『平民新聞』の非戦論に共鳴し、社会主義に接近する。その後、行商・新聞記者を経て平民新聞の編集に参画。1907年管野スガと内縁を結ぶ。1908年、赤旗事件で検挙され入獄し、結果的に幸徳事件(大逆事件)での検挙・処刑を免れる。
1920年に日本社会主義同盟・1922年に日本共産党(第一次共産党)の創立にそれぞれ参加する。
戦後は全金同盟の委員長に就任するとともに日本社会党の結成に参加。1946年以降衆議院議員を2期(中選挙区東京4区選出)務めた後、1949年1月総選挙では社会主義政党結成促進協議会(いわゆる山川新党)を母体に無所属で立候補したが落選する。以後評論活動に専念。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
荒畑寒村(あらはたかんそん) (1887-1981) 94歳で死亡 (一部抜粋しています)
「孤高とはかくのごときか雲の峰」と弟子から寄せられた句に、晩年の寒村は答えた。「雲の峰雷雨とならで崩れけり」
明治、大正、昭和をつらぬいた熱血清冽(せいれつ)の社会主義者荒畑寒村は、若いころ患った結核で右肺はつぶれ、胃も半分切除し、左眼も白内障で見えなくなり、さらに昭和43年以来、慢性肺気腫を病んでいたが、その身体で、昭和53年91歳のとき、はじめてアイガー、ユングフラウモンブランを訪れて、
「名にしおうユングフラウの立姿わが初恋の女(ひと)に似たりし」
と、歌った。彼の胸には、かって23歳のときに恋した女性社会主義者管野(かんの)すがの姿が浮かんだのであろうか。
明治41年のいわゆる「赤旗事件」で、その6月から43年2月まで獄につながれた若き寒村は、入獄中恋人の管野すがが師の幸徳秋水と通じていたことを知って狂憤し、43年5月、秋水とすがが滞在している湯河原の天野屋旅館へピストルをいだいて乗りこんだが、2人は偶然その数日前に東京へ去ったあとであった。
そして、その直後、秋水とすがは検挙された。上記「赤旗事件」に悲憤したすがらが企てたいわゆる「大逆事件」の発覚によるものであった。
寒村が入獄していなかったら、当然寒村も連坐して死刑の列に加わったところだが、彼は入獄のためあやうくまぬがれ、それから実に70年を越える生命を享受することが出来たのである。
その寒村も、昭和55年11月には入院のやむなきに至り、翌年の3月2日午後、痰がのどにつまり、気管支の切開手術を受けた。
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以後彼は鼻管によって流動食をそそぎこまれていたが、3月6日午後8時半ごろ、急に呼吸が乱れ、9時5分に息をひきとった。

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