じじぃの「人の死にざま_599_浜口・雄」

濱口雄幸 - あのひと検索 SPYSEE
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経済難局の打開について(一) 1/8 動画 YouTube
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第28代・濱口雄幸内閣
http://www.geocities.co.jp/since7903/Syouwa-kyukenpou/28-Hamaguchi.htm
その時 歴史が動いた 「昭和を揺るがした銃弾」−ライオン宰相・浜口雄幸狙撃の時 2002年9月11日 NHK
その時、1930(昭和5)年11月14日午前8時57分、内閣総理大臣浜口雄幸(おさち)、狙撃される。いかめしい表情から「ライオン宰相」と人気を集め、緊縮財政、軍縮を目指す。だが海軍や野党などの壁が浜口の前に立ちふさがった。その狙撃は大正から昭和初期の政党政治の挫折、軍部の台頭へとつながる転換点となる。一発の銃弾が引き起こした悲劇の瞬間を描く。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090209120030113/
濱口雄幸 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
濱口 雄幸は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。
大蔵大臣(第29・30代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)などを歴任した。
【来歴】
高知県長岡郡五台山村(現高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。
明治28年(1895年)帝国大学法科(後の東京帝国大学、現:東京大学)を卒業。
大蔵省に入り、専売局長官、逓信次官、大蔵次官などを務め、大正4年(1915年)に立憲同志会に入党、衆議院議員に当選して代議士となる。
大蔵省に入り、専売局長官、逓信次官、大蔵次官などを務め、大正4年(1915年)に立憲同志会に入党、衆議院議員に当選して代議士となる。加藤高明内閣の大蔵大臣、第1次若槻内閣の内務大臣などを務める。立憲民政党初代総裁として、張作霖爆殺事件の責で総辞職した田中義一内閣の後に内閣総理大臣に就任(任期:1929年7月 - 1931年4月)して組閣を行う。財界からの信任のある井上準之助日本銀行総裁を蔵相に起用して金解禁や緊縮政策を断行し、また野党・立憲政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。明治生まれでは初の内閣総理大臣である。
昭和5年(1930年)11月14日、濱口は現在の岡山県浅口市で行われる陸軍の演習を視察して昭和天皇行幸に付き添う目的で(更にお国帰りも兼ねて)、特急燕に乗車するために東京駅を訪れるが、第4ホーム(現在の東北新幹線改札付近)で愛国社社員の佐郷屋留雄(さごやとめお。21歳)に銃撃される。この時は、弾丸が骨盤を砕き、東大病院にて腸の30%を摘出したが、一命を取り留めた。翌・昭和6年(1931年)3月に、野党・政友会鳩山一郎らの執拗な登院要求に押され、まだ傷の癒えない身で無理をして衆議院に登院、5ヵ月後に亡くなった。この間、臨時首相代理を幣原喜重郎にゆだねた。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
浜口雄幸(はまぐちおさち) (1870-1931) 61歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治4年7月、天皇から組閣の大命を受けた浜口雄幸は妻の夏子に、「途中、何事が起って中道で斃(たお)れるようなことがあっても、もとより男子の本懐である」と、いいきかせた。
当時日本は通貨不安定国として経済が低迷し、これを打破するために金解禁、きびしい緊縮財政の政策をとる必要があり、これには軍部と国民の猛反発がよそうされたからである。
さて、その風貌からライオン首相と呼ばれた浜口は、昭和5年11月14日、岡山県で行われていた陸軍特別大演習陪観(ばいかん)のため、午前9時15分東京駅発特急「つばめ」に乗車しようとして、駅長の先導で中央階段からプラットフォームに出た。そして列車に近づいたとき2メートルばかり離れた群衆の中から1発の銃声があがり、浜口は腹部をおさえてうずくまった。
駅の騒音のため銃声を聞かなかった付き添いの者が、「どうされましたか」と訊くと、「下腹にステッキのようなものがはいったような気がする」と、うめいた。その顔はみるみる蒼白になり、ひたいにあぶら汗がにじみ出していた。
このときたまたま同じ特急「つばめ」の1等車には、真珠王御木本幸吉がすでに乗りこんでいて、この惨劇を目撃していたが、彼は口をへの字に結んだきり口をきかず、やがて見送りの人に手をふって発車していった。
浜口はすぐに駅長室にかつぎこまれた。応急手当ののち、東大病院へ運ばれて調べた結果、銃弾はへその右下から入り、小腸を傷つけて骨盤でとまっていることが判明した。
夫人が駈けつけ、つきそいの者がそのことを告げて「奥様に何かおっしゃることはありませんか」と、さけぶと浜口は、「私事を先にすることがあるか。関係者を呼べ」といって昏睡に陥った。
手術後、東大病院の塩田広重博士は、「手術は成功した。ガスが1発出てくれれば退院の日も遠くない」と発表して、人々にその1発を期待させた。その1発の放屁にそなえて、塩田外科のまわりには新聞社のテント村が出来、記者たちは初冬の夜を立ちつくして、ひたすらライオン首相の屁を待ち受けた。
翌年1月浜口は退院し、静養にはいったが、政界は彼を強引に登院させた。
浜口は痛み止めの注射を打ちながら議会に出、官邸に変えると床の中に斃れるという状態を繰返していたが、次第に病状悪化し、8月26日午後3時に死んだ。
犯人は右翼の愛国社の一員佐郷屋留雄で、動機は金解禁による経済政策の失敗、ロンドン条約に関する統帥権干犯(かんぱん)に対する憤激のためであった。佐郷屋は死刑を宣告されたが、恩赦で無期となり、10年後の昭和15年仮出獄した。

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