じじぃの「人の死にざま_419_池田・勇人」

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昭和宰相列伝6 岸信介池田勇人(1957-1964) 動画 YouTube
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所得倍増計画
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池田勇人 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
池田勇人は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位
大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。
【経歴】
広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)に父・池田吾一郎、母・うめの二男として生まれた。父は酒造りと郵便局長をやっていた。
旧制忠海中学校、旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法学部卒業。
高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に佐藤栄作(のちの首相)と同じ宿に泊まり合わせた。池田は忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日5人は酒を飲み大騒ぎして別れた。
1948年(昭和23年)に大蔵省を退官し、翌1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙に出馬し初当選を果たす。
1952年10月30日に発足した第4次吉田内閣では、通商産業大臣経済審議庁長官を兼務し入閣した。
しかし、第3次吉田内閣にて大蔵大臣・通商産業大臣を務めていた1950年(昭和25年)3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」との発言が問題となる。また、第3次吉田第1次改造内閣にて大蔵大臣を務めていた同年12月7日、「貧乏人は麦を食え」との発言が問題となる。
1960年(昭和35年)7月14日に自由民主党総裁選挙に立候補して当選し、自民党第4代総裁に就任した。5日後の7月19日、内閣総理大臣に就任し、第1次池田内閣が発足した。池田が総理となると、池田は政治的論争となりうる課題を極力避け、「所得倍増」をスローガンに掲げて経済重視の内政主義を打ち出した。そして国民の怒りを一身に集める結果となった前政権の反省から、池田政権は徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を全面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた。「寛容」は宮澤喜一、「忍耐」は大平正芳の発案によるという。
政権発足早々の同年10月12日、日比谷公会堂で行われた自由民主党民社党日本社会党の党首立会演説会の壇上、社会党浅沼稲次郎委員長が暴漢によって目前で刺殺される浅沼稲次郎刺殺事件が起こった。この事件の直後に池田が衆院本会議で行った追悼演説は今日でも名演説として知られている。
同年11月20日の第29回総選挙で自民党は60年安保の影響もなく議席数を伸ばし勝利する。これを受けて同年12月8日に第2次池田内閣が発足すると、以前から言及していた「所得倍増」を目指す構想を実行に移し、12月27日に所得倍増計画閣議決定をする。
9月9日、国立がんセンター喉頭ガンの治療のため入院。すでにガンは相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。東京オリンピック閉会式の翌日の10月25日に退陣を表明し、11月9日に後継総裁として佐藤栄作を指名した。
その年の12月に退院するが、翌1965年(昭和40年)7月29日、東京大学医学部附属病院に再入院する。8月4日に手術を受けるものの、8月13日、術後肺炎により死去。65歳没。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
池田勇人(いけだはやと) (1899-1965) 65歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和35年国立がんセンターの設立が企図されたとき、準備委員の一人、日本癌学会会長田崎勇三は、時の首相池田に電話をかけて、あなたのやった政治の中で、たとえ何も残らなくても、がんセンターを作ったことだけは後世に残りますよ」と、いった。
この一言は池田に決定的影響を与え、早速9億5000万円の予算をつけた。
昭和38年9月の自民党総裁選で3選を果たしたあと、池田はカンテンを食いながら、「これはのどをつるりと滑って気持ちがいいよ」といった。彼の咽喉にはすでにガンが巣食いはじめていたものと思われる。
その翌年ごろからのどのカスレが甚だしくなり、39年9月9日、自分が作ったがんセンターで診察を受けた結果、ガンの疑いありとして入院し、放射線治療を受けることになった。
このとき蔵相田中角栄が「私も以前のどの手術をしてこんな悪声になってしまったんだが、同じ医者の手術を受けた赤坂小梅のほうはあんなウグイスのような声になった例もあるからねえ」と冗談まじりに励ますと、池田は、「トレードマークのこの声がウグイスのようになってしまうと困るなあ」と、真顔でつぶやいた。
10月10日から東京オリンピックがはじまり、池田はがんセンターから出て来て開会式には出席したが、オリンピック開催中に、医者から、あと少なくとも、3、4ヵ月は声を出してはいけないといわれ、退陣を決意した。
そのころ池田はがんセンターの病室の窓から、高速道路をへだてた新橋の高級料亭街の夜景を見ながら、「あの道一つで向こうは極楽、こちらは地獄だなあ」と、いった。
オリンピックが閉幕した翌日10月25日、彼は退陣声明を発表した。
「入社以来」1ヵ月経過しましたが、医師はなおしばらくの静養を求めております。私は首相としての重責にかんがみ、このさい首相と党総裁を辞任することを決意いたしました」
池田の病状は「前ガン状態」であるといわれ、この言葉がしばらく流行したほどであったが、この言葉を説明したがんセンターの院長久留勝は「天下をあざむく作戦だ」と沈痛につぶやいた。
12月に一応退院したが、翌年に至っても経過思わしからず、7月29日、東大病院に入院したが、ガンはすでに、のど、食道、肺にまで転移していた。
8月4日、手術室にはいる前に池田はメモに書いて見せた。
「神仏と名医にすべてをまかせる。日本の国のために努めを果たす」
総理大臣をやった人間は、こんな場合にもこんなことをいわなかればならない。
しかし彼は、手術後、老人性術後肺炎を起こした。
8月11日、彼は秘書の伊藤昌哉の掌に何か書いた。カの字はわかったが、次に点々を打ち、次に二の字を書いて下の棒をはねあげたように感じたものの、結局伊藤にはわからず、あとで池田の娘の紀子に話すと、「それは、カエルと書こうとしたのじゃないかしら」と、いった。池田はその朝からだだっ子のように「家に帰る」とばかりいって、医者を困らせていたのだ。
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強い睡眠薬を注射されて昏睡状態の3日間が過ぎて、8月13日朝、容態が急変した。午後零時25分、彼は絶命した。
このあと、はじめて池田がガンであったことが発表された。伊藤はあのとき池田が書いたのは、最後まで池田が知らされなかったガンという文字ではなかったか、と思い当った。

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池田勇人の言葉
「貧乏人は麦を食え」

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池田勇人 Google 検索
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