じじぃの「人の死にざま_674_佐藤・栄作」

佐藤栄作 - あのひと検索 SPYSEE
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佐藤栄作首相退任記者会見 動画 YouTube
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週刊 岩見隆夫『サンデー時評』 #8「佐藤栄作元首相に学べ」 動画 YouTube
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佐藤栄作 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
佐藤榮作(1901年(明治34年)3月27日-1975年(昭和50年)6月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位
内閣官房長官(第4代)、衆議院議員(11期)、郵政大臣(第3代)、電気通信大臣(第3代)、建設大臣(第7代)、北海道開発庁長官(第4・21・22代)、大蔵大臣(第64代)、通商産業大臣(第22代)、科学技術庁長官(第12・13代)、内閣総理大臣(第61・62・63代)などを歴任した。
【概要】
東京帝国大学卒業後、鉄道省に勤務した。鉄道総局の長官などを歴任し、運輸省の次官を最後に退官すると、非議員ながら第2次吉田内閣の内閣官房長官に任命された。その後、第24回衆議院議員総選挙にて衆議院議員に当選。民主自由党を経て自由党に参加し、一年生議員ながら自由党の幹事長に就任した。
一時無所属となるも、自由民主党に入党した。その後、内閣総理大臣を3期務めた。総理大臣在任期間は歴代総理中第2位で、連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月。20世紀生まれ初の総理である。自由民主党史上唯一4選された総裁でもある。また、第56・57代内閣総理大臣岸信介実弟にあたる。なお、ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。
【在任中の主たる施策】
首相在任中は、ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准、日韓基本条約の批准、国民祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決、内閣総理大臣顕彰制定等を行なった。
また、1967年(昭和42年)12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。
その一方で、1964年(昭和39年)10月16日に中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、直後の1965年(昭和40年)1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定した上で、日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが公開された外交文書から明らかとなっている。また、翌13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えている。
就任翌年の1965年8月19日に那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還に執念を燃やした。1965年1月のジョンソン会談に向けて沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて呆れられたとの逸話も残るが、結果的に在任中に返還を実現させた。
しかし、交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議の上で認める密約を結んだことが、交渉の密使を務めた若泉敬によって佐藤没後の1994年(平成6年)に暴露された(日米核持ち込み問題)。その後アメリカでも別の外交文書から合意の存在が確認されたが、佐藤の遺品にこの合意議事録が含まれ、遺族が保管していたことが2009年(平成21年)12月に報道された。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
佐藤栄作(さとうえいさく) (1901-1975) 74歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和39年から47年まで、足かけ9年間の佐藤内閣が終わってから、昭和48年佐藤栄作は奈良へいって、天理教の中山真柱に御馳走になったあと、立ちあがろうとして足のしびれのため、仰向けにひっくり返り、足を捻挫(ねんざ)して3日寝込んだ。
「そのうちに尾ヒレがついて、佐藤栄作が骨折したとか、風呂場でハダカのまますべってころんでケガしたらしいという記事まで出た」
と、その年の「文藝春秋」7月号に佐藤はみずから書き、さらに、
「そんなわけで、久しぶりに3日ほど寝込むことになり、やはり年をとったもんだという気持ちが急にして来た。安静にしていると妙な気分になるもので、なぜか、自分もこれで畳の上で死ねるんだなあと、非常に安らいだ気持ちになったものである」
と、書いた。首相をやっている間、さすがに彼も非命の死は一応覚悟していたものであろう。
――幸か不幸か、人間で自分が2年後に死ぬと予測出来る者は一人もない。
昭和50年5月18日、彼は日記に「きょうゴルフにいったが、ちっとも当たらない。何だか体のぐあいが悪いように思うから、なるべく近いうちに精密検査をしたい」と記した。(細川隆元『わが宰相論』)
その翌日、彼は自民党幹部、財界首脳と築地の料亭「新喜楽」で会食中、突然テーブルをたたき、みな驚いてそちらを見たとたん、横倒しに倒れた。
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末席に坐っていた代議士粕谷茂は、あわてて友人の医者に電話した。彼はいう。「失禁していれば脳溢血だといわれた。下に手をあてたら、濡れていた」
それから15日間、「新喜楽」で昏睡したまま、日本医学界の最高の治療を受けたが、ついに意識を回復せず、6月3日午前零時50分に死去した。
人の死するに当たってだれもが怖れるのは、死への恐怖と、死の苦痛と、遺族についての心配であるが、佐藤栄作はこの3つの恐れをいずれもまぬがれた。彼は政治的ライバルの相つぐ死や病気で首相の座を獲得することが出来たが、最後までついていた男であった。
いくら畳の上でも、高級料亭で死んだのは、戦後で準・大宰相ともいえる佐藤栄作にとって不本意であったかもしれないが、しかし料理屋かゴルフ場で死ぬことは、男にとって極楽浄土で死ぬようなものだ。

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B>佐藤栄作 Google 検索
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