じじぃの「人の死にざま_1170_葦原・将軍」

葦原将軍 - あのひと検索 SPYSEE
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狂気のスター −蘆原将軍のはなし− 吉澤稔男
http://www1.adachi.ne.jp/yossie/kyouki.htm
葦原金次郎 ウィキペディアWikipedia)より
葦原金次郎は、明治後半から昭和にかけて実在した日本の皇位僭称者。葦原将軍、葦原天皇、葦原帝とも呼ばれる。
【逸話】
病院に来る新聞記者や見物人に勅語を乱発しては売りつけたりした。乃木希典との会見や、伊藤博文に金を無心して無視された事もある。また、明治天皇が巡幸した際に、「やあ、兄貴」と声をかけたこともある。日露戦争時、「相撲取りの部隊を出してロシア軍のトーチカを破壊せよ」と発言するなど戦前のジャーナリズムを大いに賑わす人気者であった。奇矯かつ過激な言動は格好のゴシップとなり、新聞記者の間では「記事のネタに困ったときは葦原将軍に話を聞きに行け」と言われたくらいであったという。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
葦原将軍(あしはらしょうぐん) (1850 - 1937) 87歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治・大正・昭和三代にわたって、日本じゅうに笑いをふりむいたヒーロー。巣鴨癲狂(てんきょう)院にある彼の誇大妄想の言行録は、東郷元帥なみに絶えることなく新聞によって報じられた。
彼は「正三位(しょうさんみ)葦原将軍藤原のモロミ」と号し、日章旗と自製の木製大砲をうしろに、メリヤスの股引にフロックコートを着、訪問客が身分ある人間の場合は軍服にボール紙で作った大礼帽をかぶって会見した。
医者がはいって来て「将軍、お薬を持って参りました」というと、悠然と長髯(ちょうせん)をしごいて、「そこに置いとけ」とあごをしゃくって威容を示した。
しばしば「勅語」を発した。曰(いわ)く「今般世界内閣改造ニ付、大蔵大臣ニ付、大蔵大臣ニ軍用金トシテ百億万円献納ヲ命ズ」
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明治43年乃木将軍が廃兵院経営の参考のため巣鴨病院を訪れたとき、「尊公も旅順では随分と苦労したのう。二人の子を亡くしたのは辛(つら)かったろう。御苦労であった」と、まともな顔をしてねぎらった。
大正8年から世田谷の松沢病院に移ったが、前後を通じて在院実に56年。
昭和12年2月3日「朝日新聞」。
松沢病院の主といわれた葦原将軍事(こと)葦原金次郎が二日午後の零時半老衰病で死んだ。
 もう八十八歳、躁状態精神病者として明治十五年に入院(当時巣鴨病院)。半世紀の間にその狂人ぶりはいろいろの話題を投げた。元櫛屋(くしや)の職人だっただけに手先も器用で、肩章などを作って自ら将軍と称し、病院でも特別に一室を与えられていた」
身は精神病者にありながら、最も広く最も長く、人々に笑いを与え人々から愛されたことで、もっとも幸福な長命者の一人だろう。

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