じじぃの「人の死にざま_1619_浅野・長矩(赤穂浪士)」

刃傷松の廊下 真山一郎 covered by TK 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Rko-p0zwRYE
浅野長矩 ウィキペディアWikipedia) より
浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下 内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。
長矩が刃傷に及んだ理由ははっきりとしておらず、長矩自身も多門重共の取調べに「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので様々な説がある。 これに限らず、刃傷事件の原因のほとんどは真相不明である。

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『「歴史」の意外な結末―事件・人物の隠された「その後」』 日本博学倶楽部/編 PHP文庫 1998年発行
赤穂浪士の仇討ち後のお家断絶に領民たちは大喜び? (一部抜粋しています)
1701(元禄14)年3月14日に起こった江戸城・松之廊下の刃傷事件。
赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りつけ、浅野内匠頭切腹、浅野家はお家断絶となった。
その後、大石良雄らの赤穂浪士たちが、吉良を主君の仇として討ち果たしたことは、あまりに有名だが、では、赤穂藩の一般の人々はどうしたのだろうか?
さぞかし藩主の不運を悼んだり、自分たちの将来に不安を感じたことだろうと思われるが、じつはそうでもなかったらしい。
悲しむどころか、赤穂の領民たちは、城明け渡しのとき、赤飯を炊いて大喜びしたという話があるのだ。
当時、赤穂藩は赤字財政で、財政を担当していた家老の大野九郎兵衛は、藩札を発行したり、塩の専売制を実地したりとさまざまな方策をとった。
これらの方策は功を奏し、藩財政は潤ったのだが、製塩業に従事する領民たちは賃金労働者となり果て、藩に不満をもっていた。
そんな対立のさなかにお家断絶となったので、領民たちは赤飯を炊いて祝ったというのである。
ただし、これに異を唱える説も多い。
それらによれば、赤穂藩の政策はけっして過酷なものではなく、多額の金銭が領民に貸し与えられていた。
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もし、喜んだものがいたとすれば、それは浅野家断絶後に幕府が、領民から借りていた借金の大半を棒引きにしたので、それに対するお祝いだろうというのだ。