じじぃの「人の死にざま_940_島津・久光」

島津久光 - あのひと検索 SPYSEE
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さつま人国誌 鹿児島の情報は南日本新聞
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島津久光 ウィキペディアWikipedia)より
島津久光は、江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。玉里島津家初代当主。
位階勲等爵位従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。
島津氏27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男。同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄。同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男久治は宮之城家、四男珍彦は重富家、五男忠欽は今和泉家をそれぞれ相続した。曾孫に香淳皇后。玄孫に今上天皇
生麦事件 ウィキペディアWikipedia)より
生麦事件は、幕末の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。
尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。事件の石碑は、京急本線生麦駅近くに残っている。

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『日本史有名人の晩年』 新人物往来社編  新人物文庫 2010年発行
島津久光(しまづひさみつ) (1817 - 1887) 71歳で死亡。(一部抜粋しています)
周知のように、島津久光は国元の薩摩・鹿児島では「国父」と位置づけられている。当主忠義の父、という意味であるが、どこか曖昧である。
普通、「国父」とは領民に慈父のように敬愛される君主をいうが、久光の場合はそれに当たらず、実際は腥(なまぐさ)く、かなり政治的である。急逝した兄斉彬(なりあきら)の遺命によって、そのあとは忠義(久光の子)が継いだが、久光はどこか釈然としない。やはり「嘉永朋党事件」(お由羅騒動)が尾を引いているのか、と思う心が騒いだ。しかし、一方では然(さ)もあろうと妙に冷めていた。ともかく、忠義が家督をつぐと久光(重富家)も島津宗家に戻り、「国父」となり、忠義が輔導を請うたこともあり、いつしか藩政を牛耳(ぎゅうじ)り実権を握るようになった。
このようして久光の権力は絶大なものとなった。しかし、それは薩摩領内のことで、江戸では通用しなかった。幕府は久光を陪臣としてあつかったので、登城(江戸城)もままにならなかった。
いきおい久光の心情は屈折し、憂国の人となり、国事周旋にあたったりした。あげく、寺田屋の変、生麦(なまむぎ)事件をなどを惹(ひ)き起こしてしまった。
それはそれとして、こうした久光の一連の行いによって薩摩は、西国の雄藩として天下に知れ渡った、図らずもこれが倒幕のきっかけとなった。この時期の久光は公武合体派の中心人物で、8月18日の政変後、朝廷参預となり、幕府および朝廷の政治に関与した。この参預会議の席上で、久光らが一橋慶喜(よしのぶ)に「天下の大奸心(かんじん)、大愚物」と罵倒されたことはよく知られている。
このようなことがあって雄藩藩主による公武合体派連合は解体、久光は帰国した。征長の没後、久光の本志をのり越えた西郷隆盛大久保利通らが藩論を倒幕にもって行き、王政を復古した。
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隆盛らは御親兵(薩・長・士三藩の兵)を中央におき、全国4ヵ所に鎮台を設けたうえで廃藩置県を行った。憤懣(ふんまん)遣る方ない久光は、その日は錦江湾に終始花火を打ち上げて鬱憤(うっぷん)を散じた。壮大な気散じである。
久光にしてみれば文久2年(1862)の上京以来、国事周旋にあたり、ずいぶん金銀を費消し、心身を労し、天下のことに尽くしたつもりであったが、結局は旧領・旧領民を取り上げられてしまった。
西郷らが薩摩を出立するとき、久光は、その方どもが薩摩の家来である以上、廃藩置県などに賛成することはまかりならぬ、と釘(くぎ)をさした。それを平然と無視し、中央官制を形成してしまった。腹立たしいことこの上なしである。
西郷・大久保らにいわせれば、旧藩主には、「華族」という特権身分の称号とこれまでどおりの家禄をあたえたのであるから不平を鳴らすのは的はずれということになる。
その後の久光は、内閣顧問となり、左大臣にのぼったが、政論は相変らず旧弊であったので重用されなかった。明治8年10月、太政大臣三条実美を弾劾したのを機に職を辞し、薩摩に帰り、隠退した。明治17年公爵となり、20年12月に死亡した。71歳であった。死ぬまで髷(まげ)を切らず、医師も漢方医を用いた。とことん儒教道徳の人であった。

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