じじぃの「北杜夫が書き遺した“クプクプ”・手塚治虫への思いとは!ニュースウオッチ9」

作家の北杜夫さん死去 「どくとるマンボウ」シリーズ 2011年10月26日 asahi.com
とぼけたユーモアに文明批評を織り込んだエッセー「どくとるマンボウ」シリーズで人気を博し、「楡(にれ)家の人びと」などの小説で知られる作家の北杜夫(本名斎藤宗吉)さんが、24日午前6時2分、腸閉塞のため東京都内の病院で死去した。84歳だった。
http://www.asahi.com/obituaries/update/1026/TKY201110260123.html
AstroBoy (1960) Episode 1 - part 1 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=pnX-0fbXzyA&feature=related
未来に向って(新・鉄腕アトムED) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=iBr5GP_1F58&feature=related
シンドバッドの冒険 予告篇 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=lOj-juHGfkQ
どくとるマンボウ昆虫記 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=n21AQ3XwVCA
アラビアンナイト シンドバッドの冒険東映チャンネル
【脚本】手塚治虫/新道輝/北杜夫 【声】木下秀雄/黒柳徹子滝口順平太宰久雄辻村真人里見京子
冒険と夢にあふれた、船乗りシンドバッドの長編アニメーション。脚本に手塚治虫北杜夫が携わっている。海にあこがれ、見習い船乗りとして働く、ラサールの若者シンドバッドが、悪代官の奸計にかかり苦しむ、美しいサミール姫を助け、不気味な怪獣が守る五色に輝く宝石を探して大海へと船出する。
http://www.toeich.jp/?act=program-detail&info_id=1TT000000103
鉄腕アトム』単行本収録リスト
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic/7845/tcrc/atom-book.htm
北杜夫 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
北杜夫(本名:斎藤宗吉、1927年5月1日 - 2011年10月24日)は、日本の小説家、エッセイスト、精神科医、医学博士。
【生い立ち】
東京市赤坂区青山南町(現在の東京都港区南青山)に、母・斎藤輝子、父・茂吉の次男として生まれた。生家は母・輝子の実父、斎藤紀一が創設した精神病院、「青山脳病院」であった。
少年時代は昆虫採集に深く熱中する日々を送り、文学には興味を抱かなかった。
【作風】
祖父の斎藤紀一は「大ぼらふき」の傾向がある奇人であったが、純文学作品とされるものにも祖父のようなユニークな「ほら吹き」の人物を登場させることがある。
作品は『夜と霧の隅で』、『楡家の人びと』(奇人変人が多かった齋藤家の歴史を描いた大河小説)など純文学と位置づけられるものから、『奇病連盟』『高みの見物』などのユーモア中間小説、『怪盗ジバコ』『父っちゃんは大変人』『さびしい王様』などファンタジーといえるもの、『船乗りクプクプの冒険』のような児童文学や童話など、多様である。他に近年の作として父茂吉の評伝4部作があり、エッセーは『(どくとる)マンボウ』ものなどが小説以上に広く読み継がれている。1970年代に新潮社より全集を刊行。親子で生前に全集を完成させた最初の例となった(死後刊行では幸田露伴・文親娘がいる)。
【昆虫採集】
幼少時から始めた昆虫採集は東京大空襲でコレクションのほとんどを失ってからほとんど行わなくなったが、コガネムシ類にだけは高齢になっても執着心を持ち続けてきたことを証言している。また、幼少期からの自然史趣味は、高校の同級生で後に著名な植物学者となった西田誠を、その該博な植物学の知識で驚嘆させた。昆虫採集に関しては『どくとるマンボウ昆虫記』が根強い人気を持っている。また、その後の著作でも『南太平洋ひるね旅』『母の影』などでしばしば昆虫採集に言及している。
2008年「どくとるマンボウ昆虫展」が開催された。これは虫好きの北杜夫ファンが、全国の虫屋に呼びかけ『どくとるマンボウ昆虫記』に登場する全昆虫の実物標本を集め開催したものである。内約50種は、実際に北氏が採集した個体が使用された。さらに、『航海記』の記述にある「帽子で捕まえたチョウ」の正体や、『青春記』で「茂吉の傍らで観察した狩猟蜂」が何であったのかを、その時の正にそのものの実物標本を使用し展覧した。この展覧会は仙台市山形県上山市、栃木県日光市山梨県北杜市、長野県松本市等全国11都市で開催され、2009年8月、軽井沢高原文庫において天覧となった。
2011年9月17日〜19日に松本で行われた第71回日本昆虫学会において「どくとるマンボウ昆虫展」が開催された際、”「虫や」のみなさまへ”と題するメッセージを寄せ、その返礼として大会実行委員会長から感謝状を贈られた。10月1日、公での最後の席となった軽井沢高原文庫でのトークショーにて、新種コガネムシの献名式と感謝状の授与式が行われた。

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ニュースウオッチ9 2012年5月3日 NHK
【キャスター】大越健介井上あさひ
北杜夫が書き遺した“クプクプ” 執筆秘話 手塚治虫への思いとは
去年亡くなった北杜夫が書き残していた未発表の作品「手塚さんの偉大さ」に、手塚治虫への思いやエピソードがユーモアあふれる文体で書かれている。

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どうでもいい、じじぃの日記。
5/3、NHKニュースウオッチ9』で特集「北杜夫が書き遺した“クプクプ” 執筆秘話 手塚治虫への思いとは」を観た。
こんなことを言っていた。(手抜きしている)
大越さん、「次は2人の共鳴です。北杜夫さんが生前書き残していた未発表の原稿がありました。書かれていたのは漫画の神様と呼ばれた手塚治虫さんのことでした。手塚さんとの関わりは作家 北杜夫に特別なエネルギーを注いでいました」
作家 北杜夫 手塚治虫への思い
『ほとんど遺稿』と書かれた原稿用紙が映像に出てきた。
『ほとんど遺稿』と書かれた北杜夫さんさんの未発表のエッセーです。題名は「手塚さんの偉大さよ」。漫画家 手塚治虫さんに寄せる熱い思いとエピソードが、北さん独特のユーモアあふれる文体でつづられています。
 「手塚さんがさらに偉大であることはすでに漫画の神様と言われているのに、後輩の漫画にも嫉妬し、それをさらに越えようとしたことである」
去年10月1日、長野県軽井沢町で、集まった数人の前で北杜夫が語っている映像が出てきた。
去年10月、北さんが亡くなる3週間前の映像です。手塚さんへの思いを最後まで語っていました。
 「手塚さんは漫画の神様と言われているが、若手漫画家が評判になると猛烈にプライドを見せる」
「生命」や「人間愛」を大切にし続けてきた北さん。同年代で医師の家系に育つなど共通点の多かった手塚さんに生涯を通じて大きな影響を受けていたのです。
ふたりを結ぶ原風景
繊細な感覚とユーモラスな作風で知られた北さん。その北さんがこよなく愛したのが漫画でした。
ベッドに横たわって、漫画雑誌 『少年サンデー』を読みふけっている若き日の北杜夫の映像が出てきた。
小説家としてデビューする前から特に好きだったのが、同年代でありながら想像を超えた世界を描く手塚さんの作品でした。
 「私が兄の医院に居候していた頃、兄の子供たちはこの万年おじさんを馬鹿にしていた。私は大人なのに子供漫画が好きで、その頃全盛であった『鉄腕アトム』に魅かれていた」
応接間の机に北杜夫の写真が置かれ、そばの本棚には『鉄腕アトム』の漫画本がたくさん並べられている。
応接間に置かれた北さんの遺影。それと向き合うように並べられている『鉄腕アトム』の単行本。晩年、膨大な蔵書を処分するときも、手塚さんの作品だけは残すようにきつく言われたという。
妻の喜美子さん、「絶対にこれだけは処分しないように、と。生活が苦しく仕方ないなら、これを売って将来食べていきなさい、と。それほど大切な宝物でした」
娘の由香さん、「『アトム』を読んでいると、すごく喜んでいたのを思い出す」
若い頃の手塚治虫北杜夫が何かの原稿を前に話し合っている写真が出てきた。
北さんの代表作の誕生にも手塚さんの存在が大きく関わっていました。そのきっかけとなったのは50年前に公開されたあるアニメ映画で共に脚本を手掛けたことでした。
アニメで子くじらが船の甲板に乗り上げている映像が出てきた。
主人公が迷子の子くじらを助けるこの場面。北さんが考えたのが、海の生物が船の上で人間と会話する。当時としては大胆なアイデア。しかし、理解してくれたのは手塚さんだけだったと言います。
 「編集者は子くじらがそんなに長く甲板にいられるはずがないと否定した。後にビデオで観たところ、手塚さんは子くじらをちゃんと甲板に乗せてくれた。もっともほんのちょっぴりで、たちまち海に飛び込んで母親くじらと共に去ってしまった」
『船乗りクプクプの冒険』という題名の本が映像に出てきた。
この仕事がきっかけで生まれたのが昭和37年に発表された『船乗りクプクプの冒険』でした。北さんが初めて書いた子供向けの冒険小説です。
 「私があまりにも船乗りシンドバッドの台本を無視されたもので、その時の台本の半分を模した『船乗りクプクプの冒険』という童話を書いた」
一方、手塚さんも北さんの発想の斬新さを評価していました。
手塚治虫の手記より、
「北さんとぼくとは、どこだったか忘れたが、飲み屋で一杯やりながら、構想を練ったように覚えている。発想はすこぶる荒唐無稽で突飛なので、いただきということになった」
埼玉県新座にある手塚プロダクションで漫画を描いている男性の映像が出てきた。
なぜ、2人は互いに認め合ったのか。
手塚さんのもとで働いてきたアニメーターの小林準治さん(64歳)です。生前の北さんとも20年来の付き合いがあった小林さん。今、北さんの人気作品『どくとるマンボウ昆虫記』の漫画に取り組んでいます。
北さんの作品が漫画になるのは初めてです。多くの共通点があった2人。最も共鳴し合ったのが、「昆虫」への思いだったと小林さんは考えています。
小林さん、「2人がもし『昆虫』にまったく関心がなければ、気が合うこともなかったし、お互いに巨匠になったとしてもつながりはなかったんじゃないか」
小林さんは手塚さんも北さんも「昆虫」と向き合う中で「生きもの」、そして「人間の生と死」を見つめるようになったのではないかと考えています。
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じじぃの感想
「絶対にこれだけは処分しないように、と。生活が苦しく仕方ないなら、これを売って将来食べていきなさい、と。それほど大切な宝物でした」
こんな人、結構、多いんじゃないだろうか。
「小林さんは手塚さんも北さんも『昆虫』と向き合う中で『生きもの』、そして『人間の生と死』を見つめるようになったのではないかと考えています」
手塚治虫北杜夫も「生きもの」、「人間の生と死」について描いていたんだ。
北杜夫さんのご冥福をお祈りします。