じじぃの「人の死にざま_984_今川・義元」

今川義元 - あのひと検索 SPYSEE
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桶狭間古戦場まつり03 今川義元の最期 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-m4nSe4zakU
NHK映像マップみちしるべ 「織田信長今川義元 決戦の場所」 動画
http://cgi2.nhk.or.jp/michi/cgi/detail.cgi?dasID=D0004250004_00000
今川義元 ウィキペディアWikipedia)より
今川義元は、戦国時代の武将、駿河国及び遠江国守護大名戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河遠江から、三河尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦い織田信長に敗れて戦死した。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
今川義元(いまがわよしもと) (1519-1560) 41歳で死亡。 (一部抜粋しています)
永禄3年5月、2万5千人の大軍をひきいて上洛の途についた海道一の大守今川義元は、19日午前10時ごろ、織田の前哨、丸根砦、鷲津砦を破り、桶狭間の北方田楽狭間で首実検をしつつあった。
午後2時ごろ大雷雨となった。そのとき、2千の兵とともに信長が突入して来た。今川勢は混乱し、義元は、味方同士の喧嘩かと思っていたところへ、織田の服部小平太が槍で突きかかった。義元はその槍を切り、小平太の脚を斬ったところへ、毛利新助が組みついた。義元はたまたま口にはいった新助の人さし指を食いちぎっただけで、首をねじ斬られた。
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しかし、このとき雷雨が来なかったら、信長の奇襲が成功したかどうか疑問である。その日その時の一朶(だ)の暗雲は、義元のみならず日本の運命を変えたといわなければならない。

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