じじぃの「人の死にざま_511_斎藤・道」

斎藤道三 - あのひと検索 SPYSEE
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Nobunaga Saito Dosan 斎藤 道三 動画 YouTube
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国盗り物語」 総集編後編 その1 ニコニコ動画(原宿)
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斎藤道三 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
斎藤道三[利政/秀龍]は、戦国時代の武将。美濃(岐阜県南部)の戦国大名斎藤氏の初代当主。
父は長井新左衛門尉(豊後守)。道三の名として、法蓮房・松波庄五郎(庄九郎)・西村正利(勘九郎)・長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、良質な史料に現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。また、「秀龍」は、「龍」の字が息子たちの名前にも用いられていることからもこの諱を名乗っていたと考えられるが、その「秀」の字は六角義秀からの偏諱であるとされている。
【史料に見る道三の来歴】
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は、江戸寛永年間成立と見られる史書美濃国諸旧記』などにより形成され、坂口安吾海音寺潮五郎司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた。しかし、1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。
美濃国盗り】
天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている。
しかし織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純(これ以前にその父政頼は死去したとされる)と連携を結ぶと、両者は、美濃復帰を大義名分に掲げて朝倉氏と織田氏の援助を背景として、美濃へ侵攻した。その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、政頼は革手城に復帰した。天文16年(1547年)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、利政は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い)。一方、頼純も同年11月に病死した。この情勢下において、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。
帰蝶を信長に嫁がせた後の正徳寺(現在の愛知県一宮市(旧尾西市)冨田)で会見した際、「うつけ者」と評されていた信長が多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、斎藤利政は信長を見込むと同時に、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐようになる」と述べたと『信長公記』にある。
この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城主長屋景興や揖斐城主揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城にとどまっていた頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定した。
【晩年・最期】
国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌弘治2年(1556年)4月、17500の兵を率いる義龍に対し、2500の兵の道三が長良川河畔で戦い(長良川の戦い)、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わずに衆寡敵せず、戦死した。
戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を末の子、斎藤利治に託して信長に渡した。道三は義龍を「無能」と評したが、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、その評価を改め、後悔したという。道三の首は、義龍側についた旧臣の手で道三塚に手厚く葬られた。なお、首を討たれた際、鼻も削がれたという。

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文藝春秋 2009年10月号
司馬遼太郎が愛した日本人 大座談会
【対談者】昭和史家・作家 半藤一利茨城大学准教授 磯田道史東京大学教授 山内昌之、作家 水木楊
トップの男 (一部抜粋しています)
半藤 『国盗り物語』では、信長が武田勢を撃破して、諏訪に本営を構えたとき、光秀が思わず「多年の骨折りの甲斐があった」と呟いたのを聞きとがめて、信長が「おのれがいつ骨を折ったか。骨を折ったのは、誰あろう、このおれよ」と持つ日での頭を欄干に何度も打ち付けるという有名なくだりがあります。しかも、光秀の鎖国で、治世に情熱を傾けた丹波と近江を召し上げ、かわりに出雲と岩見をやる、という。しかし、このときにはまだ出雲、岩見は毛利家のもので、欲しかったら自分で戦って取って来い、というのだから、光秀でなくとも、反乱を起こしたくなりますね。
水木 最も上司にしたくないタイプです(笑)。
半藤 『国盗り物語』では後半の主人公、信長よりも、前半の道三の方が生き生きしています。あれは道三を書きたかったのでしょう。
山内 ここで描かれた斎藤道三も、大乱世にしか出てこないようなスケールの大きな人間ですね。もともと京都の妙覚寺の坊主だったのが、大きな油問屋に養子入りして、美濃に入り込み、最後には国そのものを乗っ取ってしまう。面白いのは、京都では富裕な商人、美濃では土岐家の家臣という二重生活を平気で送りながら、どんどん名前は変えるわ、主人の愛妾は手に入れるわ、目まぐるしいまでの変身を遂げていくあたり。
半藤 「蝮(まむし)」という異名を取るほどの凄腕を発揮しながら、そこには残酷さは感じされませんね。朗らかなんです。自分の才能に賭け、それを存分に発揮し得た人間の爽快さがある。
水木 道三自身は優秀な後継者に恵まれず、最後は長男の義龍と戦って、命を落としてしまう。しかし面白いのは、娘婿である信長と、甥の明智光秀をいわば愛弟子として、自分の志を託した点です。血縁よりも才能を認め合った指定のつながりが重い、というのも、自らの才ひとつで身を立てた道三らしい。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
斎藤道三(さいとうどうさん) (1494-1556) 62歳で死亡 (一部抜粋しています)
一介の油売行商人から美濃の土岐(とき)家の奉公人となり、主君土岐頼芸から愛妾の1人まで頂戴する寵愛を受けながら、やがてこの頼芸を追い出してみずから美濃の大守となった斎藤道三は、目的にためには手段を選ばない戦国の世にもひときわぬきん出た梟雄(きょうゆう)であった。
それだけに、人を見る眼も常人ではなく、当時たわけと呼ばれた隣国の若き織田信長に娘をめあわせ、最初の会見のあと、「おれの伜どもがやがてあのうつけの門前に馬をつなぐことは眼に見えておるわ」と嘆息したという話は有名だ。
それほど炯眼(けいがん)な彼も、それから3年後、その伜の1人に殺されることになろうとは予想もしなかったにちがいない。
長氏の義龍は、実は主君土岐頼芸がくれた女が、そのときすでに懐胎していたものが生まれたもので、頼芸の子であった。
道三はこの義龍と不仲になり、弘治元年から両者内戦の状態になり、翌弘治2年4月20日の夕、ついに道三は長良川の戦いに敗れて逃走中、義龍方の武者に首を討ちとられた。

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