じじぃの「人の死にざま_770_毛利・元」

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NHK 毛利元就 動画 YouTube
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戦国毛利氏
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毛利元就 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
毛利元就(もうりもとなり、明応6年3月14日(1497年4月16日) - 元亀2年6月14日(1571年7月15日))は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主戦国大名。本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。幼名は松寿丸、通称は少輔次郎。
安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、中国地方の覇者となり「謀神」「謀将」とも評されるが、「知将」の呼び名の方が高く、「戦国最高の知将」と後世評される。用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。
【三本の矢】
ある日、元就は三人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけた…というもの。これが有名な「三本の矢」の逸話である。これが元就の臨終前の出来事とするのならば長男が先に死んでいるため有り得ない。では、それ以前とするのならば青年期の人間が竹の矢を三本折ることができるのか、できないのかという疑問が残る。これらのことから、後世の創作であるという説もあるが、どちらにしても毛利家の家訓をわかりやすく伝える話でもあり、また三子教訓状などを通じ、元就が生前から一族の結束を繰り返し息子たちに説いていたことは事実である。

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井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
謀略の天才 毛利元就 (一部抜粋しています)
毛利元就が生きたのは戦国時代である。そのため彼の活躍は織田信長豊臣秀吉の陰に隠れてしまっているが、実はとても凄い人物なのだ。彼の最終的な領地は、山陰山陽と四国。そして九州の一部を含む11ヵ国。これは織田信長の領地よりも多い。しかも彼の生まれは、戦国大名の家ではない。今の行政単位でいえば村か町程度の広さの土地しか持たない「国人(こくじん)」の出なのだ。
江戸時代は大名が土地の支配者であり、その国の武士たちはすべて大名の家来である。しかし室町時代から戦国時代にかけては違う。当時の武士は武装農民であり、その支配者は大名ではなく国人であった。大名はその国人たちを支配するというかたちで「間接支配」を行っていたのである。元就はそうした国人の一人、安芸国高田郡吉田郡山の領主毛利弘元の次男であった。次男だから、本来ならば彼は跡継ぎになれないはずの男であった。ところが、なぜか兄の興元が早世する。そしてさらに、興元の子、幸松丸も10歳に満たないうちに死んでしまう。その結果、元就は毛利家を継ぎ郡山城の主となるのである。
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彼の最初の英断は、最大勢力であった尼子と手を切ったということだろう。尼子の下についている限り、毛利は絶対に一国の主に主になることはできない。だから元就は、あえて尼子よりも小さな大内と手を結ぶことで、いずれは尼子を食ってやるという気概を示したのだった。当然、尼子はこの毛利の態度に起こり、討伐軍を差し向ける。しかし元就は、籠城戦の末に見事これを撃退する。
その後、元就は周辺の豪族を、少しずつ乗っ取っていくのだが、そのやりかたは実に巧妙だった。まず安芸の有力国人の一人、石見口を抑える吉川家。ここでなぜかまた突然跡とりが死ぬ。すると元就は、縁戚関係であったことを理由に、次男の元春にその家督を継がせるのだ。さらに、瀬戸内の有力国人である小早川家でも家臣同士の争いから跡継ぎ問題が起こると、三男の隆景にその家督を継がせている。こうして元就は、戦うことなく陸に強い吉川氏と、水軍を有す小早川氏の良家を傘下におさめるのである。これによって元就は、安芸一国の領主となる。
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そこで満を持して、最大の敵である尼子に戦いを挑んだ。しかし、元就はやはり謀略の天才なのだろう。ここでも正攻法では挑まない。彼はまず、尼子の重臣の一人に贈り物を贈り、密かによしみを通じる。そうしておいて、あるとき死罪を課せられた罪人に、この手紙をその尼子の重臣に届ければ許してやると言い含めて釈放する。そしてさらにその罪人を別の家来に追わせ、尼子の領地に入ったところで斬り殺させたのだ。それは尼子の役人にわざと死体を調べさせ、手紙を発見させるためだった。その手紙は、尼子の重臣が主君を裏切り毛利に寝返るという内容のニセ手紙だった。この元就の謀略にまんまとはまった尼子の当主、尼子義久は、自らの手で重臣を殺してしまう。そして、この事件により疑心暗鬼に陥り、内部から崩れていった尼子は、1566年ついにその居城富田城で毛利郡に降伏する。
こうして元就はわずか一代で、国人から11ヵ国の大大名にまで上り詰めたのである。

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