じじぃの「人の死にざま_1287_黒田・官兵衛」

黒田官兵衛 - あのひと検索 SPYSEE
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松本人志 黒田官兵衛 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=J6zUh4VGOVs
大河ドラマ 軍師官兵衛 キャスト ミニまとめ 黒田官兵衛のキャストは、岡田准一さん 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gJfxTUOIN4g
黒田官兵衛

 「あなたが選ぶ○○な人 〜歴史上の人物ベスト5〜」 2016年3月16日 NHK
【案内役】井上あさひ
▼夫にしたい人ベスト5
黒田官兵衛
前田利家
③真田信幸(信之)
土方歳三
毛利元就
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/277.html
歴史秘話ヒストリア 「君よ、さらば! 〜官兵衛VS.三成 それぞれの戦国乱世〜」 2014年10月22日 NHK
【案内役】渡邊あゆみ 【配役】黒田官兵衛 役:浜口望海/石田三成 役:立川貴博/豊臣秀吉 役:酒井高陽
●エピソード1 官兵衛VS.三成 秀吉との出会い
 黒田官兵衛石田三成は、ともに低い身分から秀吉の家臣となりました。播磨国(兵庫県)の地方領主だった官兵衛は“軍師”としての才能を発揮。三成は食糧や武器の調達に辣腕をふるう“官僚”として頭角を現します。秀吉との出会い、そしてその覇業を支えた2人の輝ける日々。
●エピソード2 官兵衛VS.三成 天下取りへの道
 さに豊臣家家臣の双璧となったふたり。官兵衛は秀吉の代理指揮官として九州平定を成功させ、秀吉に絶賛されます。一方、三成は太閤検地や刀狩などで、秀吉の信頼を揺るぎないものに。ところが、あることをきっかけに官兵衛は秀吉に遠ざけられ始め、三成の扱いとのあいだには、しだいに差が…。
●エピソード3 官兵衛VS.三成 秀吉の野望とふたり
 吉が晩年に抱いた野望、それは大陸、朝鮮への出兵でした。日本で次々と命令を下す秀吉。戦場で現地軍の苦戦を目の当たりにする官兵衛と三成。この戦でそれぞれの信義を貫いたふたりは、それゆえに対立することに…。かつて秀吉から愛されたふたりが刃を交える、その皮肉なる物語。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/218.html
NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛
軍師官兵衛』は、2014年1月5日より放送されているNHK大河ドラマ第53作である。
日本の伝統文化は「わび・さび」のみにあらず!戦国時代“クスッと笑える”文化を創ったのが武将 古田織部(おりべ)です。「へうげもの(ひょうきん者)」の織部は、楽しく型破りなセンスで、茶の湯に、やきものに、“美”の革命をもたらします。ゆがみながらものびのびと変革期を生きた男の物語。
http://www1.nhk.or.jp/kanbe/
黒田孝高 ウィキペディアWikipedia)より
黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。孝高は諱で、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは出家後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。
キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。

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黒田官兵衛の情報学(インテリジェンス) 宮崎正弘/著 晋遊舎新書 2013年発行
黒田官兵衛のインテリジェンス人生 (一部抜粋しています)
黒田官兵衛は基本的に商人の発想をする。
徳川家康は官兵衛の印象を「馬商人」と喩(たと)えたことがあるが、武士の行動、立ち居振る舞いというより商人の振る舞いをたちまちのして見いだしたのだろう。
官兵衛が住んだり、あるいは縄張りをした恩着(ごちゃく)、姫路、中津、福岡の各城はすべて平城である。秀吉の命令で縄張りした広島城名護屋城などは山城、平山城も含まれるが、基本的に商人は海に近い場所に築城する。そうだ、当時の交通、運輸の主力は船である。
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結論的なことを先に書けば、官兵衛は戦略的発想より戦術の立案が得意であり、国家の大本(おおもと)や国家国民の行く末という大戦略の立案者ではない。あくまで局地戦の軍師であり、国家百年の大計は家康ら大戦略家の仕事である。
軍事作戦において官兵衛の発想は武士の形式にはとらわれない、自由自在なところがあった。
あたかも巨大ダム工事のように川をせき止めて敵の城を水没させる作戦(備中高松城水攻め)など、従来の武士の発想ではない。工期を早めるべく土嚢(どのう)を作って持参すれば、相場の倍の値段を農民に支払うといった、明らかに商業主義の計算に基づいている。
鳥取城飢え殺し作戦でも兵糧(ひょうろう)攻めを効率化させるため、鳥取の農民、商人から2倍3倍の値で米を事前に買い占めて籠城組の飢えを促進した。これは商業戦争の投機であり、武士の美意識からほど遠い。
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官兵衛の興味は「国際情勢」の入手、技術情報の把握にあったと言ってよい。当時の「国際情勢」とは外国に限らず、播州のような田舎からみれば京や堺は外国のようであり、きらびやかな文化、絢爛(けんらん)と数奇があり、まして堺はそれこそ外国船が出入りする国際都市、しかもキリシタン伴天連(バテレン)の拠点でもあった。当時の教会は「南蛮寺」と言い、新文明にあこがれて耶蘇(やそ)教(キリスト教)に染まった官兵衛は南蛮寺に通ったという。
播州一向宗が強い地盤だが、法華経日蓮宗がともに盛ん、姫路城の北方には書写山圓教寺という有名な天台宗の広大な境内がある。ちなみに秀吉は高松城水攻めに際してこの書写山にも陣を敷いたほどの広さ、そして現代にいたると、ここは映画『ラスト サムライ』のロケ地にもなったほどの荘厳さである。
官兵衛は播州だけの狭い地政学から解釈した宗教、とくに宗派のバランスが堺でも京でも、まったく異なることに気づく。官兵衛はキリスト教を通じて教義、世界観、天文宇宙などといった該博(がいはく)な知識を外国人から学び、同時に世界情勢を把握した。ポルトガル、ゴア、マラッカ、マカオといった彼らの遠洋航海の寄港地の情報が分かる。京の政治情勢が把握できる。その情報こそが小寺家のような小大名が、こんご如何に生き延びるかの叡知を得るという文脈からも一等重要なことであった。

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