じじぃの「人の死にざま_811_石田・三成」

石田三成 - あのひと検索 SPYSEE
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関ヶ原の戦い01 動画 YouTube
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BBC関ヶ原の戦い 動画 YouTube
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三献茶
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歴史秘話ヒストリア みんなで幸せになろう! 〜決戦!関ヶ原 石田三成の一途な戦い〜 2010年7月28日 NHK
家康率いる東軍7万5000。一方、これを迎え撃つ西軍は8万2000。兵士の数や布陣の状況は三成率いる西軍有利です。しかし三成は不安を覚えていました。西軍の武将たちの足並みがそろっていなかったのです。そして迎えた慶長5年9月15日、運命の日。三成の不安は的中。相次ぐ裏切りにより西軍は壊滅します。そんな中、三成のことを最後まで信じ続けていたのは、ふるさとの近江の人々でした。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/52.html
石田三成 ウィキペディアWikipedia)より
石田三成は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。豊臣秀吉直属の吏僚として秀吉から非常な信頼を受けた。
【生涯】
永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。
秀吉の死後、豊臣氏家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。しかし、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老徳川家康が次第に台頭してゆく。三成は秀吉の死の直後、慶長3年(1598年)8月19日に家康を暗殺しようとしている。
慶長5年(1600年)8月からは伊勢方面の平定に務めたが家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、当初の予定は狂い、また思いがけず小早川秀秋が松尾山に陣取ったため、14日夕刻、三成は当初の大垣城に依り美濃で食い止める方策を捨て、関ヶ原で野戦を挑むこととなる。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、細川忠興黒田長政加藤嘉明田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられたが、高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。
【逸話】
大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)、もしくは大吉大一大万と記された紋を用いた。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされる。
近江国伊吹山の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな知恵配り・心遣いに感じ入った秀吉は彼を家来として採用した。それが後の石田三成である、という逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれるエピソードである(武将感状記)。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
石田三成(いしだみつなり) (1560-1600) 40歳で死亡。 (一部抜粋しています)
慶長5年9月15日、関ヶ原の戦いに敗れた三成は、従者数名とともに伊吹山に逃れ、さらに1人となって、近江伊香郡古橋村の旧知の百姓を頼って、近くの山中の洞窟にひそんでいたが、そこへ来るまでの間、空腹のあまり稲穂などを食ったので、下痢を起こして横たわっていた。
9月21日、捜索隊が三成を捕えたとき、彼は動くことも出来ない状態であった。
24日、三成は大津にある家康の本陣に連行され、26日、すでに捕えられていた小西行長安国寺恵瓊(えけい)とともに、首に鉄(かね)の枷(かせ)をはめられたまま今日へ送られた。
10月1日、彼らは馬で洛中をひきまわされた。
その途中、三成は渇(かつ)をおぼえて湯を所望したところ、警護の者が、湯はないが甘柿があるからそれで渇きをとめられよ、といったのに対し、三成は、「甘柿は痰(たん)の毒だからやめておこう」と、答えた。そこで、「いま首をはねられる人間が毒断ちするとは笑止千万だ」と笑うと三成は、「お前らのような小者はそう考えるのが当然だ。しかし大将たる者は、本意を達するまで何とかして命を惜しむものだ。よく知っておけ」と答えたという。
それにしては、逃亡の途中、稲穂などを食って、下痢をしたのがおかしい。
彼らは六条河原で斬られた。

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