じじぃの「世界遺産・ウィーンのモーツァルト!わが青春のハプスブルク」

オーストリア世界遺産 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=kowc9at6psM
Vienna Austria - Viena Austria 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=mSv88TXa6RE&feature=related
ハイビジョン特集 ハプスブルク帝国 第2回「女帝マリア・テレジア NHK
【朗読】夏木マリ 【語り】高橋美鈴
ヨーロッパに広大な領土を持ち、「太陽の沈まない王国」とたたえられたハプスブルク帝国の歴史を、さまざまな宝物とともに見ていくシリーズの2回目。18世紀、ハプスブルク家の歴史で初めて女性君主となったマリア・テレジア。彼女が多くの障害を乗り越えて権威を確立し、シェーンブルン宮殿などけんらんたる文化を花開かせていくとともに、帝都ウィーンを発展させていった過程を描く。
http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011028193SA000/
世界遺産 ウィーン Google 検索
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ウィーン(Wien) part7 シェーンブルン宮殿モーツァルトマリー・アントワネット
http://yuji7e.at.webry.info/200907/article_4.html
世界遺産ライブラリー [ウィーン歴史地区] NHK世界遺産
オーストリアの首都ウィーンの歴史は13世紀、名門王家ハプスブルク家が最初の都と定めたことに始まります。現在のウィーン旧市街を取り囲む「リングシュトラーセ」と呼ばれる環状道路が出来たのは、19世紀末のことでした。この通り沿いには様々な歴史的建造物が立ち並び、建築様式のショーウィンドーと言われています。
「シリーズ世界遺産100」では、環状道路がなぜ作られたのかをご紹介します。
環状道路を作ったのは、フランツ・ヨーゼフ1世、ハプスブルク家最後の皇帝です。16世紀に絶頂期を迎えたハプスブルク家は、19世紀中ごろには衰退し帝国各地で独立を要求する暴動が起きていました。自らも暗殺未遂事件に巻き込まれ、帝国分裂という最大の危機を迎えたヨーゼフはウィーン大改造を決断します。旧市街を囲んでいた城壁を取り壊し、幅58メートルの環状道路を作りました。通り沿いには市民の心をつかむためオペラ座や、ギリシャ風の国会議事堂を建設しました。
しかし歴史の波は容赦なくヨーゼフを襲いました。1914年、第1次世界大戦勃発。戦争のさなかフランツ・ヨーゼフは86歳で死去、ハプスブルク帝国はここに滅亡しました。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards527.html
『わが青春のハプスブルク―皇妃エリザベートとその時代』 塚本哲也/著 文藝春秋 1996年発行
マリア・テレジアヨーゼフ2世 (一部抜粋しています)
マリア・テレジアロートリンゲン(現在ドイツ国境に近いフランスのロレーヌ地方)のフランツ・シュテファン大公と恋愛結婚、歴史の本は「終生寝室を共にした」という表現で、2人の仲睦まじさを表現しており、女子11人、男子5人の計16人の子供が生まれた。ハプスブルク家は多産系で、ナポリ王家に嫁いだ十女のマリア・カロリーネは17人、三男レオポルドは16人、四男フェルディナンドは9人の子供を持った。
「汝は戦争をせよ、我は結婚す」という家憲の通り、ハプスブルク家は婚姻政策によって版図を拡大していったが、それは子宝に恵まれていたからこそできたのである。
マリア・テレジア肖像画はみな威風堂々、貫禄のある女性としてえがかれているが、色白で目が大きく気品があり、その美しさと魅力はたとえようもなく、若い時は楚々とした美女であった。その彼女を女帝に鍛え上げたのは、23歳で帝位についた途端に始まったオーストリア継承戦争である。父のカール6世には男子がなく、女子にも帝位継承ができるように家憲を変え配慮したが、強大なハプスブルク帝国を狙っていたフランス、プロイセンなどの諸国は、か弱い女性の相続人につけこんで、領土などの要求をつきつけてきた。側近の将軍や政治家は「要求を呑まなければ王位まで失います」と忠告したが、弱腰の意見をしりぞけた若き女帝は、7年も続くオーストリア継承戦争を戦い抜いて、帝国の威信を守ったのである。プロイセンによって豊かなシュレジア(現ポーランド南部)をとられ、口惜しい思いをしたが、以来女帝として軽くみられるようなことはなくなった。それどころか、むしろ敬意をもって一目置かれる堂々たる女帝に成長したのは、やはりハプスブルク王家の血というべきだろう。
戦争を通じてハプスブルク帝国の弱点や欠陥を痛感した彼女は、行政組織や軍隊に思い切った改革を行なった。ルーズで非能率的な行政を中央集権で命令が行きとどくように改め、軍の指導将校を、これまでの貴族中心から身分を問わない実力中心にし、若い有能な人材を抜擢した。兵士の食事や衣服にまで女性らしく気を配り、野戦病院を整備向上させて兵士の士気を高めた。彼女は不思議と人を見る目があり、抜擢された者は必ずといってよいほど大きな功績を残した。マリア・テレジアはまた筆まめで、親書や手紙をもらった人々には感激し、奮起して粉骨砕身忠誠を誓うようになった。こうして国全体が盛り上がり、心あたたかい「国の母」として全国民の尊敬を一身に集めた。それでいて、単なる「鉄の女」ではなかった。
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1780年女帝のマリア・テレジアが40年の治世の後63歳で死亡し、ヨーゼフ2世が後を継いだ。何事も長期的計画を経てじっくり改革を進めた女帝とちがって、息子のほうは冷静な面があるかと思うと、情熱的でことを急ぎ、改革には熱心で積極的だったが、理想主義的過ぎて思わぬ抵抗にあい、失敗したりした。しかしヨーゼフ2世は自ら国家、国民の従僕として任じ、君主は国民から委託された権力を、国家の安全、国民の生活向上と幸福のために行使するものと心得、幅広い改革を断行した。
農奴制を廃止し農民を解散、農民の地位を向上させ、拷問を廃止、強大すぎるカトリック教会を抑え、700の修道院を廃止し、他の宗派にも信仰の自由を保証した。いずれも当時としては革命的な大改革だった。

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『ウィーン四季暦』 池内紀/著、ルーイス・このみ/画 東京書籍 1991年発行
アウガルテン公園 (一部抜粋しています)
陽がとっぷりと暮れた。カンテラをさげた少年がひとり、城門広場でベソをかいている。客にあぶれたらしいのだ。このとき小柄な男が通りかかり、泣いている少年に話しかけた。少年の祖父はトルコ戦争で勇敢に戦ったという。父はマリア・テレジア女帝のおつきの兵士だったが戦場で死んだ。母は病死した、いま病気の祖父とふたりで郊外町の2階に住んでいる。少しでもお金をもって帰らないと明日のパンが買えない……。
「気の毒に」
と男はいった。
「お国のために働いた一家じゃないか。皇帝様に請願してみたらどうかね。おじさんがお願いしてあげよう」
「どうしておじさんにそれができるの?」
「だっておじさんは……皇帝様におつかえしている理髪師だもの」
小柄な男は口ごもりながらそういった。
この話のおしまいは、もうおわかりになっただろう。少年に案内されて小柄な男が郊外町の貧しい家にいく。立ち去る際に公証人のところで開くようにといって一通の手紙を残していった。あくる日、少年が公証人に読んでもらうと、「国家のために功績あったこの一家に100ドゥカーテンの年金を贈る」とある。おしまいにヨーゼフ皇帝の署名があった……。
1884年に出たヴァンツェンツ・キァヴァチの「古きウィーンの物語」にのっている話である。作者はこれを幼い頃両親から聞いたそうだ。マリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世は”民衆王”とよばれていた。しばしば市民の服装をして町を歩きまわったという。さしずめ、水戸黄門のオ−ストリア版ということになる。
少年と祖母がどこに住んでいたか作者は書いていない。もともと「心やさしい皇帝さま」という美化された伝説の1つであって、郊外の町がどこでもよかったのだろう。しかしなろうことなら、ドナウ川を渡ったタボール通りからアウガルテン街、その先のブリギッテナウあたりであればいいと私は思う。1783年の日付のある銅版画をみると、当時その界隈には「カンテラ小僧と皇帝の理髪師」といった物語にうってつけのみすぼらしい家が並んでいる。モーツァルトにくわしいかたなら、ちょうどこの頃、アウガルテン公園内のあずまやで定期的にコンサートがひらかれていて、モーツァルトが指揮をとっていたことをご存知だろう。公園の入り口には小さな凱旋門がたっている。正面の奥にはバロック様式の建物が見える。昔はヨーゼフ2世お気に入りの宮殿だった。現在はウィーン特産のアウガルテン陶器の制作室がおかれている。森をはさんで右手の建物がウィーン少年合唱団の本拠地だ。

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どうでもいい、じじぃの日記。
1600〜1700年代、ヨーロッパはハプスブルク家が支配し、中東はオスマン・トルコ帝国、インドはムガール帝国、中国では明が支配する世界であった。
30年以上も前にテレビで、ハプスブルク家に嫁いでいった青山光子の生涯を描いたNHKスペシャル「国境のない伝記」を観た。吉永小百合さんがクーデンホーフ光子の足跡を辿るというドキュメンタリー番組だった。明治の半ば、光子がハプスブルク家に嫁いで行ったときはハプスブルク家はほとんど領土を失い没落した時代だった。
2009年再放送であったが、NHK ハプスブルク帝国 第2回「女帝マリア・テレジア」を観た。
オープニングで放牧された馬が出てきた。かって、この馬を自由に使いこなした女性がいたのだ。
11世紀にスイスの1領主にすぎなかったハプスブルク家がウィーンに居を構えた。それがヨーロッパに広大な領土を持ち、「太陽の沈まない王国」と讃えられたハプスブルク帝国となった。
しかし、18世紀になるとプロイセンが帝国を脅かすようになった。そのような時期にマリア・テレジアが女帝として君臨した。
マリア・テレジアは16歳で、ロートリンゲンのフランツ・ステファンと結婚した。女帝として君臨した映像に、いななく馬に跨っている彼女の姿があった。
マリア・テレジアは農民、市民に分けへだてなく義務教育を行うなど、いろいろな改革を行った。それはフランスにも受け継がれ、フランス革命の礎になったのだった。
マリア・テレジアヨーゼフ2世〜レオポルト1世の時代、ウィーンはモーツアルトハイドンベートーヴェンシューベルトが活躍し、ハプスブルク家の黄金の時代を迎えた。
ウィーン歴史地区」は2001年 文化遺産としてユネスコ世界遺産に登録された。