じじぃの「人の死にざま_801_M・テレジア」

マリア・テレジア - あのひと検索 SPYSEE
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Osterreichischer Militarmarsch "Maria Theresia-Marsch" 動画 YouTube
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Vienna, Austria - Maria Theresa Square (HD).m2ts 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=pMju3P-J6fE
マリア・テレジア肖像画 NAVER まとめ
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ハイビジョン特集 ハプスブルク帝国 第2回 女帝マリア・テレジア 2007年11月13日 NHK BS-Hi
シリーズ「ハプスブルク帝国」の2回目。18世紀、女帝と呼ばれたマリア・テレジアによって多民族ウィーンが華やかな都として発展していくさまを描く。
ヨーロッパに広大な領土を持ち、「太陽の沈まない王国」とたたえられたハプスブルク帝国の歴史を、さまざまな宝物とともに見ていくシリーズの2回目。18世紀、ハプスブルク家の歴史で初めて女性君主となったマリア・テレジアが、多くの障害を乗り越えて権威を確立し、シェーンブルン宮殿など絢爛(けんらん)たる文化を花開かせていくとともに、帝都ウィーンを発展させていった過程を描く。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090711140030190/
マリア・テレジア フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1743年 - 1780年)。オーストリアハプスブルク家男系の最後の君主であり、彼女の子供たちの代からは正式には、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。
一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものであったが、実際には皇帝に即位したことはない。後述するようにハプスブルク家の領国と家督を相続したのはマリア・テレジアであるため、彼女の肖像画には神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時も少なくとも領国内では「女帝」視されていた。
【政治家として】
オーストリアを強国にすべく、封建制度に縛られず様々な改革を行った。
・小学校の新設
 他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設。義務教育を確立させた。全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が行われた。その結果国民の知的水準が大きく上昇した。
・徴兵制度の改新
 軍事行政委員が設置され、軍税徴収に関する等族の介入が排除された。1762年には軍事機構が宮廷軍事庁の下に統括され、宮廷軍事庁が最高決定機関となった。また、一般徴兵制が採用された。この徴兵制は全国民の無差 別の兵役義務を承認しており(実際は身分差別あり)、農民出身であっても給料を得られるようになったことで、兵士達が安定した生活を保証され、オーストリアの軍事力は格段に上がった。
七年戦争後もマリア・テレジアによる改革は進められた。しかし、この頃になると啓蒙主義的な官僚の勢いが強くなり、改革も次第に啓蒙主義的な色彩を帯びるようになる。衣装の自由化(1766年)やイエズス会の禁止(1773年)などが代表的だが、彼女自身は次第に保守化した。1765年に死去した夫フランツに代わって帝位についた息子ヨーゼフ2世の急進的な改革姿勢とはしばしば意見が対立し、宰相カウニッツも彼女への不満を書き残している。
【家庭生活】
多忙な政務をこなしながら、フランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供をなした。子供に関しては、四女マリア・クリスティーナを最も可愛がり、彼女にだけは相愛のポーランド王アウグスト3世の息子アルベルト・カジミールとの恋愛結婚を1766年に許している。このためマリア・テレジアの死後、この夫婦はヨーゼフ2世から冷遇された。また、身体障害者で病弱であった次女マリア・アンナに対しては生涯を通じて酷薄であった。死の直前まで末娘でフランス王妃になったマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)の身を案じていた。夫フランツ譲りの遊び好きな娘に対し、フランス革命の発生を警告する手紙を送っている。また、プファルツ選帝侯家傍系のツヴァイブリュッケン公カール3世アウグスト(バイエルン王マクシミリアン1世の兄)との恋愛結婚を認められないままパルマ公フェルディナンド妃となった六女マリア・アマーリアは、嫁ぎ先で傍若無人な振る舞いをしたため帰国禁止となっている。

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『わが青春のハプスブルク―皇妃エリザベートとその時代』 塚本哲也/著 文藝春秋 1996年発行
マリア・テレジアヨーゼフ2世 (一部抜粋しています)
マリア・テレジアロートリンゲン(現在ドイツ国境に近いフランスのロレーヌ地方)のフランツ・シュテファン大公と恋愛結婚、歴史の本は「終生寝室を共にした」という表現で、2人の仲睦まじさを表現しており、女子11人、男子5人の計16人の子供が生まれた。ハプスブルク家は多産系で、ナポリ王家に嫁いだ十女のマリア・カロリーネは17人、三男レオポルドは16人、四男フェルディナンドは9人の子供を持った。
「汝は戦争をせよ、我は結婚す」という家憲の通り、ハプスブルク家は婚姻政策によって版図を拡大していったが、それは子宝に恵まれていたからこそできたのである。
マリア・テレジア肖像画はみな威風堂々、貫禄のある女性としてえがかれているが、色白で目が大きく気品があり、その美しさと魅力はたとえようもなく、若い時は楚々とした美女であった。その彼女を女帝に鍛え上げたのは、23歳で帝位についた途端に始まったオーストリア継承戦争である。父のカール6世には男子がなく、女子にも帝位継承ができるように家憲を変え配慮したが、強大なハプスブルク帝国を狙っていたフランス、プロイセンなどの諸国は、か弱い女性の相続人につけこんで、領土などの要求をつきつけてきた。側近の将軍や政治家は「要求を呑まなければ王位まで失います」と忠告したが、弱腰の意見をしりぞけた若き女帝は、7年も続くオーストリア継承戦争を戦い抜いて、帝国の威信を守ったのである。プロイセンによって豊かなシュレジア(現ポーランド南部)をとられ、口惜しい思いをしたが、以来女帝として軽くみられるようなことはなくなった。それどころか、むしろ敬意をもって一目置かれる堂々たる女帝に成長したのは、やはりハプスブルク王家の血というべきだろう。
戦争を通じてハプスブルク帝国の弱点や欠陥を痛感した彼女は、行政組織や軍隊に思い切った改革を行なった。ルーズで非能率的な行政を中央集権で命令が行きとどくように改め、軍の指導将校を、これまでの貴族中心から身分を問わない実力中心にし、若い有能な人材を抜擢した。兵士の食事や衣服にまで女性らしく気を配り、野戦病院を整備向上させて兵士の士気を高めた。彼女は不思議と人を見る目があり、抜擢された者は必ずといってよいほど大きな功績を残した。マリア・テレジアはまた筆まめで、親書や手紙をもらった人々には感激し、奮起して粉骨砕身忠誠を誓うようになった。こうして国全体が盛り上がり、心あたたかい「国の母」として全国民の尊敬を一身に集めた。それでいて、単なる「鉄の女」ではなかった。
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1780年女帝のマリア・テレジアが40年の治世の後63歳で死亡し、ヨーゼフ2世が後を継いだ。何事も長期的計画を経てじっくり改革を進めた女帝とちがって、息子のほうは冷静な面があるかと思うと、情熱的でことを急ぎ、改革には熱心で積極的だったが、理想主義的過ぎて思わぬ抵抗にあい、失敗したりした。しかしヨーゼフ2世は自ら国家、国民の従僕として任じ、君主は国民から委託された権力を、国家の安全、国民の生活向上と幸福のために行使するものと心得、幅広い改革を断行した。
農奴制を廃止し農民を解散、農民の地位を向上させ、拷問を廃止、強大すぎるカトリック教会を抑え、700の修道院を廃止し、他の宗派にも信仰の自由を保証した。いずれも当時としては革命的な大改革だった。