じじぃの「科学・芸術_836_オーストリア・ハプスブルク家」

Maria Theresia 1/2 (Osterreich, Tschechische Republik, Slowakei 2017)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=zm8WTO3du84

Schonbrunn Palace

ハプスブルク家

ウィキペディアWikipedia) より
ハプスブルク家(ドイツ語: Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。
古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国(オーストリア公国)、スペイン王国ナポリ王国トスカーナ大公国ボヘミア王国ハンガリー王国オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。
また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。
1740年、カール6世が男子を欠いたまま没したため、神聖ローマ皇帝位を喪失し、オーストリアは長女マリア・テレジアが相続したものの、それを不服とするプロイセンなど列強との間にオーストリア継承戦争が勃発した。
マリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世啓蒙主義を推し進めるなど、積極的に富国強兵に努めた。

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オーストリアの歴史』

リチャード・リケット/著、青山孝徳/訳 成文社 1995年発行

マリア・テレジアヨーゼフ2世 より

7年戦争(1756年から1763年までの7年間、シュレジエンの領有をめぐって行われたオーストリアプロイセンとの戦争)後、マリア・テレジアは、ドナウ地域の強化とイタリア[1870年の統一完了まで分裂]にある領地の防衛に全力を傾けた。プロイセンとは、もう一度戦争状態に突入した。バイエルン継承戦争(1778~79年)である。この戦争でオーストリアは、イン川の下流域を確保し、上部オーストリアバイエルンとの(今日の)国境を確定した。マリア・テレジアは、戦争を終わらせたテッシェンの和約を評して、宰相カウニッツに語った。これは、「そのほうのもっとも栄えある成果とは言い難いが、間違いなく、そのほうがもっとも心血を注ぎ、帝国にとってこの上無く有益な功績である」。
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1765年、マリア・テレジアの夫であるロートリンゲン公、フランツ・シュテファンが亡くなり、息子のヨーゼフが共同統治者に昇格した。事態はすっかり変化した。この年の暮れヨーゼフとカウニッツの意見が食い違った。ヨーゼフが、バルハウスプラッツ(外務省)の帝国宰相邸にいる、宰相の「私兵」に異議を唱えたのである。カウニッツはなるほど独自の手法を用い、宮廷に情報をもたらすようにしていた。そのために部下を集めていた。しかしカウニッツは、自分のやり方が結果によって正当化されるはずだと主張した。自賛をこめてヨーゼフがに送った報告書の中で、彼は「バルハウスプラッツの類まれな機関」を賞讃し、「どこの君主が、これほど豊富で正確な情報に接することができたでしょう」と述べた。カウニッツはとうとうヨーゼフの不快を和らげることに成功し、1792年になるまでその職にとどまる。これは彼の死の2年前であり、ヨーゼフの死の2年後のことだった。
ヨーゼフは、共同統治者となった1765年から、マリア・テレジアの亡くなる1780年にかけて、次第に外交の前面に立つようになった。彼のもっとも重要な業績は、第一次ポーランド分割(1772年)である。これはオーストリアガリシアという、新しい広大な領土をもたらしたが、マリア・テレジアは終生このことを深く恥じた。分割への参加はただ、ロシアとプロイセンにたいして力の均衡を保とうとする便宜の処置であり、擁護しがたい行為だった。この2国がポーランド分割の大きな分け前を、勝手に自分のものにしようというのであれば、オーストリアも同じようにしなければならない、つまり隣国と歩調を合わせなければならない、という状況だったのである。
マリア・テレジアの後半生には、イギリスのヴィクトリア女王との共通点が数多くみられる。まず大家族だったことである。
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マリア・テレジアの息子、ヨーゼフ2世(単独統治 1780~90)は、1765年に父が亡くなってから共同統治者となっていたが、今や単独の支配者だった。母が始めた改革の促進をすぐさま決意し、ためらわずにハンガリーでも改革を行なおうとした。ヨーゼフは確かに視野の広い、高潔な人で、それまでのハプスブルク家の人々と比べて、はるかに親しみやすい人物だった。1766年、ヨーゼフはウィーンのプラーター[ハプスブルク家の狩猟場]を一般市民に公開した。その後、人々が彼に、どうして「下層階級」の人々にまじわってそんなに多くの時間を過ごすのか、と尋ねると、彼は答えたという。もし自分が同等の者とだけ交際するなら、後半生をカプツィーナ教会(ウィーン)にあるハプスブルク家の地下納骨堂で過ごさなければならなくなるからと。ヨーゼフが全体として目ざしたものは理性によって治められる福祉国家、しかも彼自身の率いる啓蒙官僚が管理する福祉国家だった。多数の改革がまるで洪水のように打ち出された。農奴制と拷問の廃止を別にすれば改革はほとんど宗教に関わるものだった。異端の罪は廃止され、宗教はその後、個人が国家の干渉なしに自分で決定する事柄とみなされることになった。教会は国家に従属させられ、宗教的寛容は、宮廷の根強い反ユダヤ主義にもかかわらず、ユダヤ人の解放を含んでいた。さらには市民婚も合法とされた。教会生活は細部にいたるまで様々に規制され、たとえば教会ごとのローソクの数、葬儀に際して許される儀式、供物の量まで正確に定められた。墓の場所と寸法され、各署の管理にしたがわねばならなかった。ヨーゼフが構想した、自分自身を長とする、巨大な中央行政機関では、すべての仕事はドイツ語で遂行するものとされた。ドイツ語は、散在する領土のどんな遠隔の地でも唯一の公用語となった。

こうした事柄すべてにわたって、ヨーゼフが時代にはるかに先んじていたことは言うまでもない。いわゆる「福祉国家」を、実に150年も先取りしていた。