The Animated History of Poland 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=stEuQamTLXw
ワルシャワ公国
『ポーランドの歴史』 イェジ・ルコフスキ、フベルト・ザヴァツキ/著、河野肇/訳 創土社 2007年発行
はじめに より
そもそも消えたポーランドという国は少なくとも2つあった。その1つは1795年にヨーロッパの政治地図から消え、以後120年間存在しなかった。もしくは、存在したのせよ、その国の過去と何らかの絆を保ちながら未成熟な政治単位として分裂していた。しかも、その過去との絆は、広く政治の観点からも、個々の「ポーランド人」という観点からも、極めて不安定だった。まず、そのようなポーランドという国に満足のゆく具体的な定義を下すことは不可能に近い。さらに、第一次世界大戦の結果生まれたポーランドは、18世紀後半に消えた国とは著しく様相を異にしていた。しかも、その国もまたポーランド史上最も惨酷に地図から抹消され、第二次世界大戦が終った後、以前とはさらに驚くべき違いのあるポーランドが登場したのである。
2つのポーランド、つまり1795年以前のポーランドと1918年以後のポーランドは、今なお固い絆で結ばれている。ポーランド人は、何度も過去を奪われたために、つねに過去を再建しなければならなかった。このことを最も明らかに示しているのは、首都ワルシャワである。
分割体制への挑戦 1795年 − 1864年 より
かつてのポーランド・リトアニア共和国の広大な領土は、1795年から第一次世界大戦の終わりまで、諸外国に分割統治され続けた。しかし、これほど長期間にわたって分断され、その間のいくつかの英雄的な独立運動がことごとく失敗したにもかかわらず、優れたポーランド文化も、シュラフタの多くの伝統や価値観も、カトリシズムも、破壊されはしなかった。近代ポーランドの知識階層はシュラフタ階層のなかから生まれた。ポーランド語を話す大半の人々はカトリック教徒となり、カトリックのオーストリア人は別として、プロテスタントのプロイセン人や正教徒のロシア人と区別された。しかし、このかつての「共和国」の発展の仕方が政治的・経済的・社会的に各地で異なったために、地域間の差異が一段と強まった。さらに、各地で排他的な民俗的。言語的ナショナリズムが勃興したことが、古期民もしくは国家のアイデンティティーという複雑な問題をさらにややこしくした。「ポーランド人とは誰なのか?」あるいは「ポーランドとは何か?」という問いに対する答えは、1918年の人々と18世紀末の人々ではまったく異なっていただろう。当然、1918年以後のポーランド復興は困難をきわめる。
・
ホーエンツォレルン家によって支配されてきたプロイセンがナポレオンの強力な軍事力に屈服すると、プロイセン支配下におかれていた旧ポーランド領全土で反乱が起きた。かつてのポーランド軍団のドンブロシキとヴィビツキがナポレオン軍の先頭に立って進軍したことは、フランスの援助によってポーランドを復活させるという1801年に容赦なく打ち砕かれた希望を再びよみがえらせた。しかし、ツァーリ・アレキサンドルがプロイセンの味方についたために、この戦争は長引いた。そこで、ナポレオンはプロイセン領ポーランドに現地のポーランド人が行政府を組織することを許し、この行政府に社会的秩序を維持させ、ナポレオン軍のために兵士と物資を供給させることにした。ユゼフ・ポニャトフスキ公はフランスのミュラ元帥に説得され、長い熟慮の後、再生されたポーランド軍を率いてフランス軍に加わることを決意した。これを転機として、かつてワルシャワのプレイボーイ「ペピ」公と呼ばれたポニャトフスキ公は、のちに国家的英雄となり、ナポレオン時代に勇名を馳せたポーランド軍の騎士的な武勇の象徴となった。
たしかに、ポーランド西部につくられたその行政府は、徴集した正規軍(1807年6月までには3万人以上の規模になっていた)を擁する事実上のポーランド政府だった。しかし、この政府の運命はひとえに戦争の行方にかかっていた。1807年6月14日のフリードラントの戦いで、フランスはついに優位を確保し、7月7日、やむなくアレキサンドル1世はナポレオンに妥協し、ティルジットで和約を結んだ。その結果、プロイセン領ポーランドの大半を領土とする「ワルシャワ公国」が誕生し、ロシアはビャウィストクを併合し、イギリスに対する「大陸封鎖」に加わることに同意した。ダンツィヒは回復され、自由都市となった。1809年10月には、ポーランド軍がフランスとオーストリア間の短期的な戦争で活躍した結果、ワルシャワ公国はさらにオーストリアから領土を得て拡大した。
・
ナショナリズムの歴史においては、1863年から64年にかけてロシア領ポーランドの広い範囲で機能した秘密国家は、19世紀のヨーロッパに生じた驚くべき事例である。総督ベルクに言わせれば、それは「真に悪魔的陰謀」だった。しかし、その秘密国家は、ロシア領ポーランドに侵攻した40万人近いロシアの大軍(ロシア陸軍全体の半分)に対して、いつまでも戦い続けることはできなかった。さらに、どの国もポーランド問題に介入しなかったことが、反乱者たちを意気消沈させた。そして、ロシア側がますます苛烈に報復し、ついにはツァーリが農民の懐柔策を取ったことによって、その秘密国家は壊滅した。しかし、蜂起した人々が農民の土地所有権を認めたために、ロシアは急遽、ヴィェロポルスキが感が手いたアンよりも、さらにはツァーリがロシア本国の農民に認めたよりもはるかに寛大な条件で、土地諸集権をポーランド王国の農民に与えざるをえなかった。
ロシア領ポーランドの農民層がサンクト・ペテルブルグの帝国主義的君主に感謝し、その忠実な臣下になるのか、それとも、とりあえず経済的要求がかなえられた後、他のポーランド人たちと国民意識を共有するようになるのか――ということは、その後のポーランド史の重要な問題となる。1864年以後に一変する国際体制もまた、ポーランドの独立闘争史の分岐点となる。