じじぃの「科学・芸術_731_国の形成・消えたポーランド」

Polish-Lithuanian Commonwealth Song 動画 YouTube
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Polish-Lituanian Commonwealth

ポーランドの歴史』 イェジ・ルコフスキ、フベルト・ザヴァツキ/著、河野肇/訳 創土社 2007年発行
はじめに より
そもそも消えたポーランドという国は少なくとも2つあった。その1つは1795年にヨーロッパの政治地図から消え、以後120年間存在しなかった。もしくは、存在したのせよ、その国の過去と何らかの絆を保ちながら未成熟な政治単位として分裂していた。しかも、その過去との絆は、広く政治の観点からも、個々の「ポーランド人」という観点からも、極めて不安定だった。まず、そのようなポーランドという国に満足のゆく具体的な定義を下すことは不可能に近い。さらに、第一次世界大戦の結果生まれたポーランドは、18世紀後半に消えた国とは著しく様相を異にしていた。しかも、その国もまたポーランド史上最も惨酷に地図から抹消され、第二次世界大戦が終った後、以前とはさらに驚くべき違いのあるポーランドが登場したのである。
2つのポーランド、つまり1795年以前のポーランドと1918年以後のポーランドは、今なお固い絆で結ばれている。ポーランド人は、何度も過去を奪われたために、つねに過去を再建しなければならなかった。このことを最も明らかに示しているのは、首都ワルシャワである。
ピャスト王朝のポーランド ? − 1385年 より
ポーランドはローマに征服されたことがない。このことは、紀元1200年頃に年代記を書いてポーランド人最初の年代記作家となったクラクフ司教ヴィンツェンティの誇りだったが、現代の歴史家にとって頭痛の種である。ローマがポーランドを征服したとかポーランドから撤退したといったことがないために、この国が形成され始めた最初の重要な年を決めることが難しいからである。
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のちに20世紀になると、また別の神話が書き加えられた。すなわち、第二次世界大戦後の約40年間、ポーランド政府公認の歴史観は、1945年以降のポーランドの国境は不思議なことに「最初のポーランド王国」の国教に一致している、というものであった。その背景には、国民にきわめて評判の悪かぅた共産主義政権が建国時代の過去にすがって自らを正当化しようとした以上に、国民に安心感を与えなければならないという切実な問題があった。なぜなら、すでに1000年もの間、この国の国教はめったに定まらなかったばかりでなく、延ばしたり縮められたり、さらにはわずか数十年の間に捻じ曲げられたり消されたりしたからである。その間に国を追われた人々もいたし、新たに流入した人々もいた。今日でさえポーランド人の中に自分のルーツについて、自分は「ポーランド人」なのだろうか、それとも「ドイツ人」、「ウクライナ人」、「ユダヤ人」、「ベラルーシ人」、あるいは「リトアニア人」なのだろうか、と自問する人々がいるのである。
ポーランド・リトアニア共和国 1572 − 1795年 より
ポーランド・リトアニア共和国の将軍タデウシュ・コシチュシコが率いるコシチュシコ軍は1794年10月10日、ワルシャワ南東のマチェヨヴィツェで、自軍よりはるかに大規模なフェルゼン将軍率いるロシア軍を攻撃した。ロシア軍のスヴォーロフ将軍の援軍が到来することを予知し、その先手を打とうしたのである。しかし、コシチュシコ軍は敗退し、コシチュシコ自身も捕虜となった。11月4日、スヴォーロフ将軍の部隊は、ヴィスワ川をはさんでワルシャワの対岸にある、貧弱な防備しかないプラガを急襲し、およそ1万人の人々を虐殺した。ワルシャワが陥落したのはその翌日だった。こうして蜂起は鎮圧された。
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「共和国」がもはや存在しない以上、議会が新しい協約を批准するかどうかは問題にされなかった。ポーランド・リトアニア共和国の国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキは1795年11月25日に退位し、1798年2月12日にサンクト・ペテルブルクで死んだ。1796年1月12日にロシア、オーストリアプロイセン間で終結された3国協定には、「ポーランド王国が存在したことを思い出させるすべてのものを消滅させなければならない」と明記された。こうして貴族民主制という壮大な実験は失敗に終わった。しかし、この貴族国家の国民は、このときの怒りを忘れず、国とともに引き裂かれながらも同じ国民であることを自覚し、国が消滅する直前の数年間に見事に復活した文化と政治に誇りを抱き続けた。