じじぃの「科学・芸術_734_ポーランド・ナチスの占領」

German Invasion of Poland in 1939 | Captured German Film | World War 2 Documentary 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uNOqSSP1o94

ポーランドの歴史』 イェジ・ルコフスキ、フベルト・ザヴァツキ/著、河野肇/訳 創土社 2007年発行
はじめに より
そもそも消えたポーランドという国は少なくとも2つあった。その1つは1795年にヨーロッパの政治地図から消え、以後120年間存在しなかった。もしくは、存在したのせよ、その国の過去と何らかの絆を保ちながら未成熟な政治単位として分裂していた。しかも、その過去との絆は、広く政治の観点からも、個々の「ポーランド人」という観点からも、極めて不安定だった。まず、そのようなポーランドという国に満足のゆく具体的な定義を下すことは不可能に近い。さらに、第一次世界大戦の結果生まれたポーランドは、18世紀後半に消えた国とは著しく様相を異にしていた。しかも、その国もまたポーランド史上最も惨酷に地図から抹消され、第二次世界大戦が終った後、以前とはさらに驚くべき違いのあるポーランドが登場したのである。
2つのポーランド、つまり1795年以前のポーランドと1918年以後のポーランドは、今なお固い絆で結ばれている。ポーランド人は、何度も過去を奪われたために、つねに過去を再建しなければならなかった。このことを最も明らかに示しているのは、首都ワルシャワである。
独立の回復と喪失 1914年 − 45年 より
ポーランド経済が1926年から29年にかけて著しく回復したことが、ピウスツキ(初代首相)体制をさらに安定させた。文化面でも急速な進展が見られた。たとえば新聞や雑誌類の種類の出版部数も増え、1927年に12万台だったラジオの保有台数も1930年には24万6000台になった。初等教育社会保障制度も精力的に拡充された。1921年当時のきわめて貧弱な経済基盤を思えば、これらのことは注目されるべき成果であった。しかし、農業生産の増加が農民の懐をかなり潤わせたとはいえ、1925年の土地改革は、農村の人口過剰という、特に南部で深刻だった問題を解決することはできなかった。過剰人口の緩和策は、あいかわらず南北アメリカ諸国とフランスへの移民であった。
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1938年と39年に国際状況が悪化し、同時に国内経済が回復したことは、政党間の緊張をやわらげ、国民の連帯意識を強くした。独立20周年にあたる1938年の11月には、1935年憲法の定める制限下での選挙が行われ、政府与党が大勝して議会の80パーセントの議席を獲得した。政府は1920年型の国防連立政権を組む提案をすべて拒否したが、国家の独立を守るというこの政府の決意はポーランド世論に圧倒的に支持された。
ポーランドはドイツの誘いを拒否したばかりでなく、執拗にソ連に対して東部の「平和戦線」参入を促す英仏の真意にも深い疑念を抱き続けていた。ソ連が示した東部戦線参入の条件は、ポーランドに独立を放棄させるに等しい内容であり、ポーランド政府としてはとうてい受け入れることはできなかった。モスクワ政府は、ソ連軍のポーランド東部への駐留、ポーランドルーマニアの同盟関係の解消、ポーランド西部国境に対するイギリスの保証を要求したのである。スターリンは、特にミュンヘン会談の後では、西側の意図に強い不信感を抱き、ひたすら時間稼ぎをしていた。しかし、彼は結局イデオロギーよりも帝国主義的利益を重視し、西側よりうまみのある提案をしてきたヒトラーと取引した。1939年8月23日に終結された独ソ不可侵条約には秘密議定書がついており、中・東欧を両国の勢力圏で二分し、ポーランドを両国で分割することになっていた。
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ナチス に占領された全ヨーロッパ諸国のなかで、ドイツ軍と最も長く戦い、恐るべき人的・物的犠牲を払ったのはポーランドだった。戦時中のポーランドの犠牲者数は(非ユダヤ人とユダヤ人の合計で)ポーランド人口の5分の1に達したと推定されている。ソ連もまたポーランドの不信をかうだけのことをした。しかし、この場合もまた、ポーランドの悲劇はその地理的要因から生じた。この国はソ連からベルリンおよびドイツ内のソ連占領地域への直行ルート上にあった。この決定的要因から、フィンランドはもちろん、ハンガリールーマニアチェコスロヴァキアよりも、ポーランドソ連にとって戦略的に重要だった。ソ連の領土要求を見ても、戦前のポーランド領の5分の2以上を併合したことにくらべれば、先の東欧3国に対しては比較的わずかな領土しか要求していない。一部のポーランド人たちはスターリンポーランドの残部を併合してソ連邦に加えることを恐れていたが、1941年以後のスターリンには――バルト海諸国に対する彼の方針とは対照的に――そのような考えはなかった。しかし帝国主義的な国益追求のためには、ポーランドを形式的に独立国とする場合ぬも、完全にソ連の管理下におかなかればならなかった。したがって、ソ連支配に対するいかなる抵抗も粉砕しなければならなかった。挙国一致臨時政府にミコワイチクを入閣させたのは、民主主義者ミコワイチクというイチジクの葉で、そのような共産党支配の実態を覆い隠すためであり、西側諸国にその政府を認めさせるための代償であった。
1845年7月から8月にかけて行なわれたポツダム会議では、最終的な講和会議に先立ち、アメリカとイギリスはポーランドの西部の境界をオーデル・ナイセ(オドラ・ヌィサ)ラインとすることに不承不承同意した。またポーランド領内にとどまっているドイツ人住民を国外に退去させることにも同意した。