じじぃの「歴史・思想_67_世界史大図鑑・ベルリンの壁の崩壊」

Moments in History - The Fall of the Berlin Wall

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MM2qq5J5A1s

The fall of the Berlin Wall parallels Germany’s open door to refugees

West Berliners crowd in front of the Berlin Wall in 1989 as they watch as German border guards demolish a section of the wall in order to open a new crossing point between East and West Berlin.
https://nypost.com/2015/10/04/the-fall-of-the-berlin-wall-parallels-germanys-open-door-to-refugees/

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

鉄のカーテンは取り払われた ベルリンの壁の崩壊(1989年)

東西ベルリンを隔てるベルリンの壁は、ソヴィエト共産主義と西側資本主義の激しい対立の印として数十年間そびえ立っていた。1989年11月9日、東ドイツ政府が旅行制限を解除すると、数多くの人が壁に集まりだした。熱狂する群衆を前に、東ドイツ国境警備隊は屈するしかない。11月10日には、ベルリンの人々が壁を打ち破るのを両側の兵士が手伝うという思いがけない場面が見られた。それから2日間で300万人以上が国境を越えた。

東側ブロックの支配

第2次世界大戦の終わり、ソ連は東欧のすべての国で反共産主義政党を禁止し、反対者を容赦なく弾圧してソ連の主導下に衛星国で構成する陣営を形成した。
1960年代、ドイツは東西に分かれたままで、首都ベルリンは、連合国に統治される西ベルリンとソ連に支配される東ベルリンに分割された。西側には自由主義政権、東側には共産主義政権と、それぞれにドイツ人による独立した政府が成立した。膨大な数の東ドイツ人が西に流れ、東ドイツは熟練労働者を失った。1961年8月13日、東ドイツ政府は東ベルリンと西ベルリンの国境を金網で封鎖し、これが時間の経過とともに厳重に強化されて防壁となり、街、国、家族や友人を分割した。
1985年、ミハイル・ゴルバチョフがソヴィエト共産党の書記長に任命される。西側との友好的な関係を目指したゴルバチョフは、新しい改革「グラスノスチ」(政治の「情報公開」)と「ペレストロイカ」(自由主義的経済に向けた「改造」)に着手する。決定的なのは、東側諸国に政治体制の改革を許したことだ。

共産主義の崩壊

ソヴィエトによる軍事介入の脅威がなくなると、東側諸国は共産主義支配の終焉を求めて抗議の声をあげる。1989年6月、ポーランドの「連帯」という、以前は禁じられていた労働組合が、選挙の結果、連立政権で主導権を握ることとなった。改革への要求が高まると、東ドイツ政府は、自国民がベルリンの壁を越えて西ベルリンを訪れてもかまわないと宣言する。
ベルリンの壁の崩壊はきわめて重大な出来事であり、冷戦終結ソヴィエト連邦解体の時代を特徴づけるものとなった。何百万もの人が自由に移動できるようになり、それまで抑圧されていた東欧と旧ソヴィエト連邦諸国の経済が世界に開かれた。多くの旧共産主義国NATOに迎え入れられ、欧州連合EU)に加盟した。
1989年に世界は進路を変えた。東の共産主義は死滅し、再統一されたドイツがヨーロッパの中心に復帰した。