激動のペレストロイカ・第1回ゴルバチョフの登場 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6rMsmKyhSAo
ベルリンの壁崩壊 (1989年)
東欧革命 ウィキペディア(Wikipedia) より
東欧革命は、1989年にソビエト連邦(ソ連)の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で共産主義国が連続的に倒された革命である。1989年革命と呼ばれる事もある。
東欧革命の本格的展開は、1985年にソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた「ペレストロイカ」により起こった。これは、ソビエト連邦の政治・経済の硬直を打開するために開始された政治改革であり、外交でも従来のソビエト連邦の外交政策の転換を図った。ゴルバチョフの外交に対する新方針は、一つは冷戦体制に基づいた旧来の外交政策を緊張緩和の方向に転換する事。(新思考外交)もう一つは、ソビエト連邦が持っていた東側諸国の共産党国家に対する統制、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」の撤廃であった。このペレストロイカに則った「新思考外交」は、1988年3月の新ベオグラード宣言の中にも示され、またフランク・シナトラのヒット曲「マイ・ウェイ」から「シナトラ・ドクトリン」と呼ばれた。
「新思考外交」に対する東欧諸国の反応は様々であった。その中で、ポーランドとハンガリーは、情勢の変化を巧みに読み取り、また共産党内での体制変革の要求、ソビエト連邦に対する不信感から、この機会を利用して積極的に国内改革に取り組もうとする動きが起こった。
1989年5月にハンガリーがオーストリアの国境を開放すると、ハンガリー・オーストリア経由で西ドイツへ脱出しようと多くの東ドイツ市民が東ドイツから逃げ出すようになった。既に改革を進めていたハンガリー政府は東ドイツ市民の逃亡を助ける形で1989年8月には汎ヨーロッパ・ピクニックを成功させ、さらには9月になると正式に東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させるようになった。
ベルリンの壁崩壊から1年にも満たないうちの10月3日に東西ドイツは統一された。
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『ロシアの歴史を知るための50章』 下斗米伸夫/著 明石書店 2016年発行
ゴルバチョフ――冷戦を終わらせた男 (一部抜粋しています)
7年間にわたったゴルバチョフ時代とは何だったのか? それは革命的とも言える大胆な改革の時代だった。それ以前のスターリン時代が恐怖政治、フルシチョフ時代が雪解けと自由化、そしてブレジネフ時代は停滞の時代だった。こうしたなかで、共産党体制の行き詰まりを打破し、経済を縦立て直すという困難な課題に挑戦したのがゴルバチョフだった。
1980年代のソ連は世界のコンピューター革命に乗り遅れ、低成長が続き、生産性の低下や消費財不足などで停滞し、主要産業の技術は西側よりも20〜30年も遅れていたと言われている。また米ソ関係もソ連がアフガニスタンに侵攻したのに対して、アメリカなど西側がモスクワ五輪をボイゴットするなど厳しい対立が続いていた。
こうしたなか、ゴルバチョフが打ち出したのが、改革(ペレストロイカ)、情報公開(グラスノスチ)、新思考外交という画期的な政策であった。ただゴルバチョフには最初からこうした壮大な計画があったわけではない。ペレストロイカを正式に打ち出したのは就任2年目の1986年2〜3月の第27回党大会であり、情報公開が進んだのも1986年4月のチェルノブイリ原発事故で秘密主義の批判を受けたあとだった。しかし、ゴルバチョフには従来のしがらみにとらわれず、欧米の考えにも学び、時代の変化に対応できるという政治家として優れた資質があった。
ゴルバチョフはペレストロイカを革命と位置付け、独立採算制の導入などの経済改革、複数政党制を採り入れる政治改革、自由化や民主化を次々に進め、ソ連は大きく変貌した。しかし、パンドラの箱が開いた影響はすさまじく、歴史の見直しや共産党批判、スターリン批判といったタブー視されていた問題が次々に噴き出した。同時に経済改革が行き詰り、保守派と改革派が激しく対立、民族紛争や分離独立運動が激化するなどでペレストロイカは失速していった。
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ペレストロイカはなぜ失敗したのか? 2015年5月、ペレストロイカ開始から30周年を記念したシンポジウムがモスクワで開かれた。基調報告を行なったリベラル派のクドリン元財務相は、「ゴルバチョフは自由への動きを始めた。これは彼の構成だ。しかし、それがどういう風に終わるのか彼は最後まで理解していなかった」と述べ、ゴルバチョフは自分が始めた改革が結果的にどうなるのか、経済的なビジョンも含めて描くことができなかったと指摘した。また当時、急進改革派のリーダーでモスクワ市長を務めたポポフは、筆者とのインタビューで、「保守派と急進改革派との間で深刻な対立があった。我々急進改革派は社会主義の放棄を主張したが、ゴルバチョフは新しい社会主義のモデルにこだわった」とゴルバチョフの保守的な姿勢を批判した。
ゴルバチョフほど国内外で評価が分かれている指導者は珍しい。アメリカの雑誌『タイム』は1999年、「20世紀の重要な人物100人」のなかにソ連からはレーニンとともにゴルバチョフを挙げるなど、西側諸国は冷戦を終結させた手腕を高く評価している。
一方ロシア国民のゴルバチョフを見る眼は厳しい。ゴルバチョフ時代は急激な市場経済化で混乱を招いた次のエリツィン時代とともに、ロシア革命、第二次世界大戦に匹敵する未曽有の困難を時代と受け止められている。
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背景には国民の間に、連邦が崩壊し大国の誇りが傷つけられた、物不足など暮らしが急速に悪化した、民族紛争が悪化したなどの否定的な思いがある。また保守派は「ゴルバチョフがドイツ統一を認め、そのドイツが今ロシアに経済制裁を行なっている。ウクライナ機器の原因も連邦崩壊にある」などと批判している。
こうした批判にゴルバチョフは強く反論する。「ペレストロイカは過去への逆戻りを不可能にする抜本的な変化をもたらした。政治的な権利、自由な選挙、自由に海外旅行をする可能性を認めた。また軍拡競争を終わらせ、軍縮のプロセスを開始した。中国との関係を正常化し、アフガニスタンから軍を撤退させた」と主張し、ペレストロイカを擁護している。同時に、冷戦終結によって開かれた可能性はアメリカがロシアの国益を無視し、一国支配を強めたことで取り逃されてしまったとアメリカの対応を強く批判している。