じじぃの「科学・芸術_539_ソ連の崩壊・ペレストロイカ」

Good bye、Lenin!DDR GDR! 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=llYaPDRojVE&list=PLD5792C3227A79302&index=40
ソビエト連邦の崩壊

ソビエト連邦 崩壊 NHK名作選(動画他)
12月25日、ソ連ゴルバチョフ大統領が辞任し、これを受けてソ連邦を構成する各共和国が主権国家として独立した。
この年の8月、保守派グループが権力奪取をめざしてクーデタをおこしたものの、ロシア共和国のエリツィン大統領が民衆とともに反撃しクーデタは未遂に終わった。この過程でソ連共産党の権威が失墜し、ソ連邦を構成する共和国のすべてが独立を宣言した。1917年のロシア革命で成立したソビエト連邦は崩壊した。
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030239_00000
『グッバイ、レニングラード ソ連邦崩壊から25年後の再訪』 小林文乃/著 文藝春秋 2018年発行
グッバイ、レニングラード より
1991年12月までに、ソ連邦構成共和国はすべて独立。地球の陸地面積の6分の1を占める超大国であったソビエト連邦は、1991年12月25日に地上から完全消滅した。
ロシア革命勃発から、74年目の崩壊劇であった。
ゴルバチョフペレストロイカとは、結局何だったのか。ロシア語で「立て直し」を意味する改革は多岐にわたったが、彼が国民に訴えていたことはごくシンプルだったように思う。
「8時間はちゃんと真面目に働き、仕事中の飲酒はやめましょう。官僚は賄賂を取らず、一党支配を改め、情報は国民に正確に開示しましょう」
スターリンが死んだ日、まだ少年だったゴルバチョフは棺を見るため、モスクワの夜道をひたすら歩いたのだという。少年は棺を前に、これから国民はどう生きていったらいいのかと、悲嘆にくれたそうだ。
しかし、後にスターリン政権の実態を知る立場となり、ゴルバチョフは「スターリンと共に歩むことはできない」、との結論に達したのだという。
結果的にゴルバチョフは望まずして、ソビエト連邦の看取り役となった。
    ・
1991年12月25日、モスクワ時間19時、長年クレムリンに翻ったソビエトの深紅の国旗が、ゆっくりと降ろされた。
その光景を、私は自宅のリビングで唖然と見つめていた。ソ連が消えてしまった? そんなバカな。ラリサや、パパやママや、コルホーズの家族、オーリャはどうなるの?
その隣で母は「やっぱりこうなったのね」と神妙な顔で言った。
父はそれに対してなにかに反論し、そのうち2人は全共闘世代らしく、激しい議論を始めた。やがて言い争いになり、それは深夜まで続いた。
その時の議論の内容を、いつか母が話してくれたことがある。
「お父さんと話したのは、所詮は机上の空論でしかないんだ、ということだった。どうにもならない人間の格差を、せめて経済面から解消しようと考えらのがマルクス経済学・共産主義の発想だったわけでしょう。能力のある、なしも含めて、平等に幸福感のある社会。それが基本的な命題としてあったはずで、私たちはそのために戦ったんじゃなかったの?
なのに、結局ソ連はこうなってしまった。学生運動のときも、最後は内ゲバに向いてしまって、卒業の頃には2人ともげんなりしてたじゃない。どうしてこうなるのかしらって。そうしたら、『お前に何が分かるんだよ』って、ゆうちゃんはいつもそう言って私に怒るのよ」
石原裕次郎に憧れていた父は、ちょうど自分の名前も近いので、母は自分のことを「ゆうちゃん」と呼ばせた。
なんでお父さんと結婚しちゃったのよ、と冗談交じりに聞くと、母はいつも遠くを見るような目でこう言うのだった。
だって、学生運動のときのゆうちゃんはキラキラしてて、とっても勇敢で、本当に何かが変わるかもって、そう思ったのよ――。
ソビエト連邦が崩壊してから、父はしばらく元気がなかったように思う。母のヒーローは、ソ連の崩壊と一緒に消えてしまった。かつての彼の輝きを、私は知らない。
ふらふらと虹を掴むように生きてきた父の青春時代が、ついに終ったのだ。