じじぃの「歴史・思想_19_世界史大図鑑・スターリン」

CNN - Cold War 4/24 Berlin 1948-1949

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PPiZ8wIf_-I

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

眠るほかは、ひたすら飛行機を飛ばした ベルリン空輸(1848年)

1945年のヤルタ会談ポツダム会談では、敗戦したドイツを4つの地域に分割し、それぞれをフランス、イギリス、ソヴィエト連邦アメリカが治めることに戦時の連合国が合意した。首都ベルリンは、ソ連が支配する東ドイツにすっぽりと囲まれ、4つの区域に分割された。
1948年6月24日、ソ連が西ベルリンを封鎖し、鉄道や道路や水路による連絡をすべて断って生活必需品が住民に届かないようにした。合計250万人が、飢えるか共産主義政権を受け入れるか、どちらかの選択を迫られた。東西が衝突すれば、また別の世界大戦につながる可能性があったが、西側諸国は航空機を使って物資をベルリンに落とす計画を考え出した。その後14ヵ月で、救援任務としてベルリンへ27万8,288回の飛行がおこなわれた。空輸の最盛期には、3分に1機がそこへ向かった。

ヨシフ・スターリン より

1920年代半ばから死亡までのあいだソ連の独裁者として君臨したヨシフ・スターリン1878年~1953年)は、反対者を容赦なく抑圧することで知られた。ソヴィエト・ロシアの最初の指導者ウラジーミル・レーニンと知り合った1906年ごろから権力を握るようになる。ロシア革命(1917年)のあいだと革命後、共産党が政権の座を得るにあたって中心的役割を果たし、1922年にはロシア共産党の書記長に就任した。
1927年に政敵を党から除名して権力を掌握すると、ソヴィエト連邦を産業大国へ変容させることをめざす。1928年には五ヵ年計画を考案し、集団農場を導入した。何百万人もの人が強制労働収容所で餓死したり、敵対者と見なされた者への粛正の波によって殺害されたりした。
戦後スターリンの指導のもとで共産党は第2次世界大戦の元連合国と対立するようになった。死亡したあとには、後継者たちから恐怖政治と殺人について糾弾された。

ベルリンの兵糧攻め計画 より

1948年6月、西側の3つの連合国が、自分たちが統治するドイツの各地区を統合して新通貨を導入する計画を発表した。スターリンはすぐさま反応し、ベルリンを封鎖することで兵糧攻めにして、西側から力を奪おうtした。西側諸国は、西部地区の支配権をソ連に与えることを望ます、断固としてベルリンに踏みとどまるつもりだった。
ベルリン空輸は成功をおさめ、スターリンは1949年5月に封鎖を説いた。ベルリンの危機を契機として、西側諸国は北大西洋条約機構NATO)という防衛同盟を形成する。東欧の共産主義諸国はそれに対抗する同盟、ワルシャワ条約機構を1955年に結成した。
ベルリンをめぐる危機によって、米ソ間の敵対感情は激化した。第2次世界大戦後、朝鮮もまた、ソ連が占領する北部とアメリカが占領する南部とに分類される。ソ連を後ろ盾にした北が、1950年6月に南に侵攻した。アメリカは国連軍に兵を派遣し、国連軍が南の救護に向かった。朝鮮戦争は1953年に休戦したが、この戦争とベルリンをめぐる紛争、1949年のソ連初の原爆実験によって、西側で共産主義拡大への恐怖がいっそう高まった。