じじぃの「科学・芸術_837_ドイツによるオーストリア併合」

German Troops March Into Austria (1938)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=k6Wa4BL28OM

German troops marching into Austria

ドイツによるオーストリア併合

ウィキペディアWikipedia) より
ドイツにおいて多くの国民から支持を受け、議席および勢力の拡大を続けていたナチス党の活動はオーストリアにも波及してきた。1932年の地方選挙において、オーストリアナチス党は既存の右派集団である護国団を上回る実力を見せ、一方護国団の一部が暴走してクーデター計画を立てて失敗したことによって、保守的・反共的な思想の人々の支持が急速にナチスに移りつつあった。

翌年、ドイツで(オーストリア生まれの)ヒトラー政権が誕生すると、その支援を受けたオーストリアナチス党員が公然と暴力によるオーストリアの政権奪取とドイツへの併合を主張し始めた。

キリスト教社会党と護国団を基盤としたドルフス政権は1934年の2月内乱をきっかけに、オーストリア社会民主党ナチスの禁止に動いた。そして、いわゆるオーストロファシズム体制と呼ばれる一種のカトリックの権威に基づいた権威主義体制を打ち立てた。これには、ドイツと友好的な関係を持ちつつも、ドイツによるオーストリア併合に反対するイタリアのムッソリーニの支援があった。
1938年2月12日にベルヒテスガーデンでヒトラーとシューシュニック(オーストリアの首相)は会合を行い、ヒトラーオーストリアを保護下に置くための幾つかの要求を行った。ヒトラーの要求は到底受け入れられるものではなかったが、結局シューシュニックは2月18日にオーストリアナチスに転向していたアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを内務大臣に任命する。だが、既にオーストリア国内ではオーストリアナチスが公然と政府打倒とドイツへの併合を求める動きを開始していた。
シューシュニックはハプスブルク家復活による独墺合邦(アンシュルス)を望んでいたとも言われており、ナチスそのものに対しては嫌悪感を抱いていたが、ドイツとオーストリアは将来的には統一されるべきだという信念を抱いていた。

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オーストリアの歴史』

リチャード・リケット/著、青山孝徳/訳 成文社 1995年発行

第二次オーストリア共和国 1945年より今日まで より

オーストリアの終焉――少なくともドイツのナチ支配者たちはそう考えた。しかしオーストリアは実際には、抵抗運動、強制収容所、亡命の地などにある愛国者の心に生き続けた。オーストリアの抵抗運動は、ヒトラーの軍隊がオーストリアに侵入すると同時に始まり、あらゆる年齢、政党、階級の人々を含んでいた。陰謀や破壊活動は、ゲシュタポの警戒を考えると、むなしいものにみえたかもしれない。というのは、わずかの抵抗も容赦ない残酷さで排除されたからである。それでも抵抗運動は戦争の間も命脈を保ち、軍隊にも支持者がいた。

しかし全体として、1938年3月の、オーストリア人によるヒトラー歓迎は熱狂的だった。そのあとに訪れた突然の覚醒を考えると、狂乱というのが正しい形容かもしれない。

最初の数ヵ月、ヒトラーは救世主とみなされた。失業は、壮大な新しい軍備計画(リンツの巨大な製鋼所、ヴィーナー・ノイシュタットの飛行機製造工場など)のおかげで事実上なくなった。仕事は、ユダヤ人の一掃が進むにつれて、ますます見つけやすくなった。だが、時とともに、歓喜は消え始めた。とりわけ、いちばんいい仕事はすべて、ドイツ人のところへ行ってしまうことがはっきりした時だった。1939~40年の、人々を熱狂させた勝利にもかかわらず、ドイツのロシア侵攻(1941年)によって古い世代はぞっとした。彼らには、ロシアの冬の戦闘がどんなものか、痛いほどよくわかっていたからである。主にオーストリア人からなる二個師団がスターリングラードで壊滅して、オーストリア人の士気は最低に落ち込んだ。ただBBC放送を秘かにきいた者だけが、1943年11月1日にモスクワで開かれた連合国外相会議の宣言によって励まされた。
  「英国、ソビエト連邦アメリカ合衆国の各政府は、ヒトラーによる侵略行為の最初の犠牲となったオーストリアが、ドイツの支配から解放されなければならないことに合意する。これら政府は、1938年3月15日、ドイツがオーストリアに強いた併合を無効とみなす。しかしオーストリアは、同国自身が自己を解放するため、どれほど寄与したか、最終的な解決にあたり、必ず問われることを思い起こす必要がある」。
ロシア軍が東部からオーストリアへ侵攻しようとし、イギリス軍とアメリカ軍がそれぞれ南部と西部から迫りつつあった時、宣言の最期の文言は、オーストリア人の心理に大きな影響を及ぼしたことだろう。ウィーンとその郊外で戦闘が行なわれている間に、ドイツ軍の制服をまとったオーストリア愛国者グループが、ロシア軍とうまく連絡をつけた。ブダペストを襲ったような荒廃からウィーンを守ろうとしたのだった。地方での抵抗運動も、特にケルンテン、シュタイアマルタ、ディロル、フォアアルルベルグの各州で活発だった。
ウィーンの解放は1945年4月13日に完了し、オーストリア全土は4月27日までに解放された。