じじぃの「歴史・思想_352_ユダヤ人の歴史・ホロコースト・死の労働と飢餓」

Kristallnacht: Night Of Broken Glass

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-y0uwd9QAYE

Burning of the synagogue in Hanover, Germany, 1938

Recent Books on Kristallnacht

November 8, 2013 Holocaust Education
As historians Deborah Dwork and Robert Jan van Pelt have observed about Kristallnacht, “The pogrom of 9 November 1938 was the end of the beginning; the 10th of November was the beginning of the end” (Holocaust: A History, p. 102).
https://blogs.chapman.edu/holocaust-education/2013/11/08/recent-kristallnacht-books/

ユダヤ人問題 コトバンク より

ユダヤ人に対する偏見、差別、迫害に関する問題。
ユダヤ人への偏見や差別には、ほとんど2000年に及ぶ歴史があるが、ヨーロッパの社会とその歴史において複雑な様相をもって現れた。ユダヤ人問題の複雑さは、ユダヤ人の置かれた被抑圧的位置と、ユダヤ人が社会的、精神的にアウトサイダーであったことに起因する点が絡み合って生じたものと考えられる。
日本で反ユダヤ主義と表記される反セム主義anti-Semitismは19世紀の産物であり、古くさかのぼることのできる反ユダヤ主義ユダヤ人憎悪とは異なっている。

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ユダヤ人の歴史〈下巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

ホロコーストへの第一歩 より

ヒトラーが権力の座にあった12年間を通じて、ユダヤ人迫害の見られるこの二面性(感情的な憎悪と冷静で合理的な判断)が保たれた。最後の最後まで、ユダヤ人は個人による突然で無分別な暴力行為の標的となり、同時に大がかりな計画に基づいた、国家の手による組織的な残虐行為の犠牲となったのである。戦争が始まる前、最初の6年間、ヒトラーは2つの暴力形態の間を行ったり来たりした。戦争が始まって情勢が悪化し統制が厳しくなると、しだいに後者が勢いを増し、その規模は壮大なものとなっていく。確かにヒトラーは、事態に応じ即興的にものごとを決める、戦術の天才であった。迫害の規模と手段が巨大になり、止めようとしても止まらぬ独自の勢いをもちはじめたのは、事実である。それでもなお、全体的な戦略が常に存在し、計画全般が掌握されていた。それはヒトラー個人の反ユダヤ思想に基づき、ほかならぬヒトラー本人から発したものだった。ホロコーストは計画的に行なわれたのであり、計画を作ったのはヒトラーである。この恐ろしい出来事を理解する鍵は、それしかない。
ヒトラーによる政権掌握の直後、反ユダヤ政策の実行には2つ障害があった。1つは、ヒトラーにとって経済の迅速な再建が急務であったこと。したがってユダヤ人富裕層から財産を奪って追放し、一時的にせよ経済に真空状態を作るのは避けねばならなかった。さらにヒトラーはできるだけ早い再軍備実現を意図していた。そのためにはドイツ国内で大規模な残虐行為など起こりえないと、国際世論を安心させる必要があった。そこでヒトラーは、14世紀から15世紀にかけてスペインで用いられた手法を採用する。すなわち個人の暴力行為を奨励し、ユダヤ人に対し公の法的手段を発動する口実とするのである。
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ユダヤ人市民の権利を大幅に制限するニュルンベルク法が、1935年10月1日に施行された。同法に基づき、ユダヤ人から行動の自由を奪う規則の体系が、非常な速度で網の目のように張りめぐされていく。1938年の秋までに、彼らは経済界で有していた力を完全に失ってしまう。一方ドイツ経済は再び好況を呈していた。再軍備も実現していた。すでに20万人以上が出国していたものの、オーストリア併合の結果、ユダヤ人の人口は少しも減らなかった。したがって「ユダヤ人問題」はいまだ片づいておらず、ヒトラーは次の段階、すなわち問題の国際化に取り込みはじめる。国内のユダヤ人が勢力を失っても、国外にユダヤ勢力が存在する限り、ドイツは安泰ではない。特に彼らはドイツに対し戦争をしかける能力をもっており、危険きわまりない。ヒトラーは、そう訴えた。
1938年11月7日、事態は劇的な展開を見せる。ヘルシェル・グリュンシュパンという名のユダヤ人が、パリでナチ外交官を狙撃し殺害したのである。この事件によって新たな行動を取る口実を得たヒトラーは、またしても表と裏の手段を用い、手下を使い分ける。事件の2日後、9日の夕刻、ミュンヘンでナチ指導者の集会が開かれ、ゲッペルスは復讐を誓う暴動がすでに発生しつつあると述べた。ゲッペルスの進言を容れたヒトラーは、暴動が拡大しても介入するなと指示する。幹部たちはこれを、党が率先して暴動を組織せよとの指令と解釈した。いわゆる「クリスタルナハト(水晶の夜)」事件は、こうして起こったのである。ナチ党員はユダヤ人焦点に押し入り、商品略奪した。すべてのシナゴークに火を放つよう、突撃隊に出動命令が下った。
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1938年11月には、すべての学校からユダヤ人が追放され、列車、待合室、食堂で、一般人との同席が許されなくなった。彼らを隔離された居住地区に囲い込む措置も取られはじめる。こうした措置は、複雑な規則に基づいて取られる場合もあり、またまったく法的根拠を欠いている場合もあった。最初から最後まで、ユダヤ人に対するヒトラーの戦いは、不法行為と組織的合法的な活動と、そしてあからさまな暴力行為の、驚くべき混合物であった。例えば1938年以降、ヒムラーは独断でユダヤ人の運転免許証をすべて無効とし、行動の自由を制限して、強制収容の実行を容易にした。財産を没収されたユダヤ人たちは、やむなく大都市に集まってくる。同じように資産を奪われたユダヤ系の福祉施設は、彼らに援助の手を差し伸べることができなかった。この結果1939年3月の政令により、ユダヤ人失業者は強制労働に駆り出されることとなる。
こうして1993年9月に戦争が始まるまでには、やがて起こる恐ろしい出来事の兆しが十分現れており、そのために必要な組織も徐々に形を取りはじめていた。

死の労働と飢餓 より

開戦を契機として、ユダヤ人に対する圧迫は急速に高まる。1939年9月以降、ユダヤ人は夜8時を過ぎて外出するのを禁止された。さらにユダヤ人の移動が一定の時間帯、地域によっては1日中、制限された。きわめて不便な時間を除いて、場合によっては1日中、公共交通機関を用いるのが禁じられる。電話の所有が、そして使用が禁止となった。公衆電話には「ユダヤ人の使用を禁ず」という張り紙が貼られた。1938年に採用されたユダヤ人の身分を証明する書類が、開戦後彼らの権利を奪うため有効に活用される。配給を受けるための証明書にはJのマークが押され、ユダヤ人窮乏化を促進するためあらゆる分野で用いられた。1939年12月以降配給量が減らされ、同時に限られた時間しか買い物が許されなくなる。第一次大戦でドイツが敗れた理由の1つは、ユダヤ商人の不正な投機を目的とした隠匿行為によって国内の食料が不足したためだと、ヒトラーは固く信じていた。そこで今回の戦争では必要最小限以上の食物をユダヤ人に与える必要はないと、決心していた。このため食糧庁が、迫害実行のために重要な役割を果たすこととなる。ユダヤ人が餓死せざるをえないような厳しい食糧制限措置を、この役所の官僚が中心となって次々と講じた。
ユダヤ人は文字どおり死ぬまで働かされた。彼らには、勤労者の権利を保障するドイツ雇用法の規定を適用しなくてよかった。ドイツの雇用者はこれをいいことに、まずユダヤ人に休日出勤手当を支払うのをやめてしまった。