Kerel Weirich, unknown Catholic hero of the Holocaust
Kerel Weirich, unknown Catholic hero of the Holocaust
Holocaust Remembrance day in Europe and Italy
January 28, 2010 i・Italy
A source within Wiesel’s entourage later told Reuters that the words “highest level of spirituality” were a reference to Pope Pius XII who headed the Roman Catholic Church from 1939 to 1958, and who is at the center of a debate over what he did or did not do to help Jews during the war. This is destined to remain a burning issue between Catholics and Jews, and Wiesel’s reference to Pope Pius showed no sign of resolving it.
http://www.iitaly.org/magazine/focus/facts-stories/article/holocaust-remembrance-day-in-europe-and-italy
オーストリア人、ルーマニア人、フランス人、イタリア人 より
ドイツ人よりたちが悪かったのは、オーストリア人である。人口の少なさを考慮すれば、彼らはドイツ人よりよほどひどいことをやってのけたと言えるだろう。ヒトラーのみならず、アイヒマンもゲシュタポ長官エルンスト・カルテンブルンナーも、オーストリア人であった。オランダでは、アルトゥル・ザイス=インクヴァルトとハンス・ラウターの2人のオーストリア人が、ユダヤ人殺戮を指揮した。ユーゴスラビアでは、5090人の戦争犯罪人のうち、2499人がオーストリア人であった。特別行動隊でも、オーストリア人は顕著な役割を果たしている。親衛隊員からなる特別行動隊の3分の1が、オーストリア人によって占められていた。6つの絶滅収容所のうち、なんと4つでオーストリア人が所長をつとめたし、ユダヤ人犠牲者600万人のほとんど半分は彼らが殺したのである。オーストリア人はドイツより激しい反ユダヤ主義者であった。
メナシュ・マウトナーという名の第一次世界大戦で負傷し義足をつけた傷痍(しょうい)軍人が、ある冬の日ウィーン市内の凍った歩道で転んだとき、その場で3時間助けを求めても、通行人の誰一人として助けの手を差し伸べようとしなかったという話が残っている。彼らはユダヤの星印をみて、助けるのを拒否したのである。
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ユダヤ人絶滅を目指すヒトラーにとっていちばん期待外れだったのは、同盟国イタリアである。19世紀半ば、教皇庁統治時代が終わって以来この方、ヨーロッパでイタリアほどユダヤ人を受け入れた国はない。1904年国王ヴィットリオ・エマヌエル3世は、シオニズムにこう語っている。
「ユダヤ人はどんな職業についてもかまわないし、実際あらゆる職業に従事している。(中略)われわれにとってユダヤ人は、紛うことなきイタリア人である」
イタリア系ユダヤ人は、世界で最古の歴史を誇る集団であった。ペニト・ムッソリーニは、「古代イタリアに住むサビニ人の女が襲われたあと、衣服をあてがったのがユダヤ人さ」と、冗談を言うのがしきであった。サビニ人はローマ時代初期の民族である。それほど昔からイタリアにはユダヤ人がいたと強調したのである。総理大臣が2人、陸軍大臣が1人出ていたし、大学教授、将軍、提督の中でも、ユダヤ人出身者の割合はきわめて高かった。ムッソリーニ自身生涯を通じ、親ユダヤと反ユダヤと、2つの対場の間を行ったり来たりした。この男に第一次大戦への参戦を決意させ、それによってマルクス主義的国際主義から国家社会主義へと、人生で最も重大な方針転換を行なうのに力を貸したのは、あるユダヤ人グループである。1919年「戦闘ファッシ」創設に関わった者の中にも、5人のユダヤ人がいたし、ファシスト運動のあらゆる側面、ユダヤ人の活躍が目立った。『ファシスト百科事典』のアンティ・セミティズムの項の鋭い分析は、ユダヤ人の学者が書いたものである。ムッソリーニの伝記記者マルガリータ・サルファッティと大蔵大臣を務めたグイド・ユングの2人とも、ユダヤ人であったが。ヒトラーが政権を獲得すると、ムッソリーニは全ヨーロッパのユダヤ人の保護者を自認し、シュテファン・ツヴァイクが「すばらしいぞ、ムッソリーニ」と褒めたたえたほどである。
しかし、ムッソリーニがいったんヒトラーの信奉者となると。彼の反ユダヤ的傾向がより顕著となる。ただし、所詮あまり根の深いものではなかった。ファシスト党とイタリア政府内部には確かに反ユダヤ過激派分子がいたものの、フランスのヴィシー政権内部に巣くう反ユダヤ派と比べればずっと立場が弱く、民衆から広汎な支持を集めた形跡もまったくない。1938年ドイツからの圧力を受けてこの国は人種法を導入し、大戦が始まるとユダヤ人を収容所に送り込みもした。が、1943年イタリアが降伏し、国土の半分がドイツがドイツ軍政下に置かれて初めて、ヒムラーは半島での最終解決に着手できたのである。8月24日、ヒムラーはローマの親衛隊隊長ヘルベルト・カプラーに、年齢性別を問わず、すべてのユダヤ人を拉致し、ドイツへ送るよう命じた。しあし自宅でイタリア人の愛人がユダヤ人家族を匿(かくま)うのを許していたローマ駐在ドイツ大使は、まったく協力せず、軍司令部ケッセルリング元帥も、陣地構築のためユダヤ人が必要だと言い張った。
カプラーは命令を発してユダヤ人をゆする。ドイツ大使館で2人のユダヤ人指導者、ダンテ・アルマンシとウーゴ・フォアに会い、さながら暗黒時代を再現したかのように、50キロの金塊を36時間以内に渡さなければ、200人のユダヤ人を殺すと脅かした。指導者たちがリラで払ってもかまわないかと尋ねると、カプラーは、「リラなら欲しいだけ自分で刷れるんだ」と、あざ笑って取り合わなかった。金塊は4日後ゲシュタポに届けられる。ローマ教皇ピウス12世が必要なだけの金を提供しようと申し出たが、非ユダヤ人、特に司教区の神父たちが十分な領を寄付したので、教皇の助けは要らなかった。むしろ深刻な損失はユダヤ人共同体の図書館からユダヤ人教関係の古文書多数がもち去られ、ナチの理論的指導者アルフレート・ローゼンベルグの指摘な蔵書に加えられたことである。
財宝ではなく殺すのを目的として生身のユダヤ人を求めていたヒムラーは、カプラーの処置に激怒し、「対ユダヤ人作戦」を遂行するため、拉致の専門家テオドール・ダネカーと44人の親衛隊殺人チームを派遣する。この男はパリとソフォアで、同様の任務を遂行した経験があった。駐ヴァチカンドイツ大使は、教皇に迫りくる危険を告げ、教皇は聖職者の聖職者たちに、ユダヤ人を教会内部の聖域に匿うよう指示する。ヴァチカンはあわせて477人のユダヤ人を保護し、さらに4238人が修道院に逃げ込んだ。襲撃は失敗に終わる。カプラーはこう報告している。
「作戦遂行中、ユダヤ人をわれわれにつき出そうとする者はどこにも見当たりませんでした。いたのは、警察からユダヤ人を守ろうとする大勢の人間たいだけでした」
それでもその捕獲作戦によって、1007人のユダヤ人が捕まり、まっすぐアウシュビッツへ送り込まれた。生還したのはたった18人にすぎない。