じじぃの「歴史・思想_518_歴史修正主義・ホロコースト否定論」

Ernst Zundel : “Gift to the World” (1993) - The Fifth Estate

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sN92noK1E6w

Ernst Zundel

Ernst Zundel's Neo-Nazi Legacy Will Linger Unless Toronto Fights Back

August 14, 2017 HuffPost
In his prime, Ernst Zundel was the most prodigious publisher of Holocaust denial and anti-Semitism on the planet.
https://www.huffpost.com/archive/ca/entry/ernst-zundels-neo-nazi-legacy-will-linger-unless-toronto-fights_a_23076725

ユダヤ人排斥/絶滅政策/ホロコースト

世界史の窓 より
ヒトラーナチス=ドイツによるユダヤ人に対する排斥は、さらに絶滅政策に転化し、約600万人が犠牲となった。
ヒトラーが青年時代を送った、オーストリア=ハンガリー帝国の都ウィーンは、多民族都市であり、その中で支配的立場にあったドイツ人は、ハンガリー人やチェコ人の民族運動に脅かされ、その反動でドイツ人の民族的優位を強調する民族主義が強まっていた。また、中世以来続く反ユダヤ主義も根強く、民衆の中に風潮として広がっていた。
ホロコースト
ナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺戮をホロコーストという。
この言葉は、もとはユダヤ教神殿に捧げられる羊などの供物のことで、1978年にアメリカで放映されたナチスユダヤ人迫害を描いたTVドラマの題名とされて広まった。ヒトラーナチスユダヤ人政策は、1935年のニュルンベルク法制定から本格化し、はじめは公民権剥奪、国外追放という手段がとられたが、大戦開戦後はドイツの占領地域のユダヤ人に適用され、一時はヨーロッパのユダヤ人のマダガスカルへの強制移住が計画された。そして42年の1月にヴァンゼーで開催されたナチス首脳会議において、「最終的解決」がはかられることとなり、アウシュヴィッツなどの強制収容所でのガス室などによる大量殺戮が決定された。
戦争が終わるまでに、ゲットーや各地の強制収容所で餓死、射殺、ガス殺その他の手段で殺されたユダヤ人の数は、560万から590万に上る。ユダヤ人以外にも、ドイツ人も含む精神障害者7万人の安楽死や、ロマ(ジプシー)約50万人が殺されている。
https://www.y-history.net/appendix/wh1504-071.html

中公新書 歴史修正主義 - ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで

武井彩佳(著)
ナチスによるユダヤ人虐殺といった史実を、意図的に書き替える歴史修正主義ホロコースト否定論が世界各地で噴出し、裁判や法規制も進む。
100年以上に及ぶ欧米の歴史修正主義の実態を追い、歴史とは何かを問う。
序章 歴史学歴史修正主義
第1章 近代以降の系譜―ドレフュス事件から第一次世界大戦後まで
第2章 第二次世界大戦への評価―1950~60年代
第3章 ホロコースト否定論の勃興―1970~90年代
第4章 ドイツ「歴史家論争」―1986年の問題提起
第5章 アーヴィング裁判―「歴史が被告席に」
第6章 ヨーロッパで進む法規制―何を守ろうとするのか
第7章 国家が歴史を決めるのか―司法の判断と国民統合

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歴史修正主義

武井彩佳/著 中公新書 2021年発行

第3章 ホロコースト否定論の勃興―1970~90年代 より

1970年代に入り、歴史修正主義は明白にホロコーストの否定、もしくは矮小化を行うようになった。「アウシュビッツガス室はなかった」「ホロコーストの死者数600万人は誇張である」「ユダヤ人はドイツから補償金を搾り取るためにホロコーストを利用する」などの主張である。
こうした言説は欧米では歴史修正主義ではなく、「ホロコースト否定論」(Holocaust denial)と呼ばれ、こうした主張をする者は、「ホロコースト否定論者」と呼ばれる。

歴史修正主義と何が違うか

なぜホロコースト否定論を「歴史修正主義」と呼ばないのか。それは彼らの主張が歴史の再検証とは無縁だからだ。
既存の歴史を新しい資料や視点から見直し書き直していくことは、学術的な営みだ。これまでになかった分析概念が登場したり、政治力学が変化したりすることで、歴史像が修正されることがある。これは序章ですでに述べた。歴史記述が修正された結果、従来の歴史像が新しいものにとって代わり、これが定着することもある。つまり、歴史の修正に十分な理由がある場合もある。
他方、否定論は史実を歪曲し、否定するためだけの理論であり、科学的な根拠はない。あえて言えば、その根拠は歴史事実を「疑っている人がいるから」に尽きる。
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第6章で具体的に見るが、現在ヨーロッパの半数ほどの国がホロコースト否定論をヘイトスピーチ(憎悪を基づく言論)として法規制の対象としている。時には学術の範疇に入ることもある歴史修正主義と、根拠のないホロコースト否定論を切り離したことで、こうした規制が可能となるのだ。
他方、日本では「歴史修正主義」という概念の幅がかなり広い。学術的な再検証から、根拠を欠く「トンデモ論」の類いまで含まれる。たとえば、「南京虐殺中国共産党による捏造である」「慰安婦はみな娼婦であった」などの言説は、欧米社会がホロコースト否定論に当てはまる基準からすると、明らかに否定論の分類に入る。しかし、歴史修正主義と否定論の明白な区別がないため、意図的に歪曲された歴史像が1つの歴史言説として社会の一部で流通している。
実際にはどこまでが修正主義で、どこから否定論になるかを判断することは難しい。ホロコースト否定論でさえまったく荒唐無稽なものは少数であり、実際には巧妙に真と偽を織り交ぜて組み立てられている。詭弁であることは明らかでも、論破するには時間と労力がいる。
このため、1970年代に欧米社会でホロコースト否定論が登場してから、社会的に断罪されるようになるまでには長い道のりがあった。

E・ツンデル――ナチ関連商品の販売

ホロコースト否定論者の存在を世界に周知させたのは、1985年と88年にカナダのトロントで行われた二度の「ツンデル裁判」である。裁判の被告人は、エルンスト・ツンデル(1939-2017)というドイツ出身のホロコースト否定論者である。
ツンデルは第二次世界大戦が始まった1939年に、ドイツ南部のヴュルテンベルク地方で生まれた。彼の幼年期の記憶は戦争と窮乏が刻まれたようだ。隣町が爆撃されたときは、街を焼く炎が夜空を赤く照らし、20キロも離れているというのに、火の勢いが増すにつれ周囲から空気が吸い込まれ、まるで竜巻のようなゴーゴーという恐ろしい音を立てていたと振り返っている。
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ツンデルは、1958年に19歳でカナダに移住した。当時は義務であった西ドイツの徴兵制を逃れるためであったようだ。カナダでは写真の修正を生業として、グラフィックアートの会社を興して職業上は高い評価を受けていたようである。
しかし、ツンデルの本当の情熱はそこにはなかった。彼が情熱を注いだのはネオナチとしての活動であった。1976年にサミスダート出版という、ネオナチ・反ユダヤ主義的な文献や音楽テープを出版する会社を設立し、ホロコースト否定論の書籍やヒトラー演説のカセットテープなどの通信販売を行った。自身がペンネームで書いた『われらの愛するヒトラー』(The Hitler We Love and Why)というパンフレットや、ヴェラルのパンフレット『本当に600万人は死んだのか?』などがリストにあった。
ツンデルはネオナチ文献を世界中の顧客に届けた。なかでも西ドイツへの輸出が多かった。ドイツではヒトラー崇拝を許すような物――たとえばナチの制服や鉤十字のついた旗などの売買は禁止されているからである。
他方でツンデルは、「ドイツ=ユダヤ歴史委員会」と「憂慮するドイツ系保護者の会」という団体も立ち上げて運営した。前者は、反シオニスト的立場からホロコーストの否定を目的としたもので、後者はドイツ人に対する誹謗中傷に立ち向かい、民族的な誇りを取り戻すための団体と謳っていた。なぜなら北米で1970年代末にテレビドラマ『ホロコースト』が放映され、高視聴率を上げた。ツンデルはテレビ放映の結果、ユダヤ人の悲劇に同情が集まり、学校でドイツ系の児童がいじめられるようになったと考えたのである。

予想外の最高裁の判断

1985年、ツンデルはパンフレット『本当に600万人は死んだのか?』が虚偽の内容であることを知りながら流布させたとして15ヵ月の禁固刑を言い渡された。ツンデルは控訴し、裁判所は手続き的な問題から裁判のやり直しを命じたため、1988年に再審が行われた。これは第2ツンデル裁判と呼ばれるが、ここでも9ヵ月の禁固刑が下されている。これに対しても、ツンデルは控訴した。
ところが裁判は思わぬ結果となる。1992年、カナダ最高裁はツンデルを裁いた当時の刑法177条は違憲であると判断したのだ。これにより、ツンデルをこの法で裁くことはできないという結論となる。もちろんツンデルはこの最高裁の判断を自身n勝利とし、逆にユダヤ人団体は二度の裁判の有罪判決で、ホロコースト否定論が断罪されたとした。
ただし、ツンデルのホロコースト否定論者としての経歴は、実はカナダ最高裁の判断で終わらない。この後ツンデルはアメリカに移住するが、ホロコーストの否定によりカナダでもアメリカでも市民権を取得することができず、ドイツ国籍のままであった。ツンデルをドイツへ強制送還する試みが繰り返されたが、ドイツがパスポートの発行を拒否したため、北米をさまよい続けた。最終的にツンデルは、2005年にドイツへと強制送還され、母国の法廷に立つことになる。これについては、第6章で再度扱う。