じじぃの「歴史・思想_356_ユダヤ人の歴史・ニュルンベルク裁判」

VITA ACTIVA : The Spirit of Hannah Arendt (Documentary Film)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-Bd6JqZmQbw

Adolf Eichmann in a Jerusalem courtroom in 1961.

Pardon Plea by Adolf Eichmann, Nazi War Criminal, Is Made Public

Jan. 27, 2016 The New York Times
JERUSALEM - After he was convicted and sentenced to death in Israel for his role in the annihilation of millions of Jews by Nazi Germany, Adolf Eichmann pleaded for his own life.
https://www.nytimes.com/2016/01/28/world/middleeast/israel-adolf-eichmann-holocaust.html

ユダヤ人の歴史〈下巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

生き残ったアンティ・セミティズム より

こうして600万近くのユダヤ人が殺された。その土地の宗教、キリスト教、非宗教的思想、迷信、知的思考、風俗習慣、学術、その他あらゆる要素を含んだ2000年にわたる反ユダヤの憎しみが、ヒトラーの手によって圧倒的な勢いを持つ怪物に転化された。そしてヒトラーの類い希(まれ)なる精力と意志の力によって、この怪物は無力なヨーロッパのユダヤ民族を根こそぎにしたのである。確かにまだ25万人のユダヤ人が難民キャンプにおり、その他にも生存者が、あちこちに散らばっていた。しかし東欧の偉大なアシュケナズ系ユダヤ人の系譜は、事実上途絶えたのである。一民族の絶滅が意図され実行された。収容所が解放され、この災禍の程度が明らかになるにつれ、世界中の人間が犯罪の巨大さに気づき、これ以上残虐行為は決してゆるさないと、一致して決意することを、一部ユダヤ人が期待したのは当然と言えるだろう。アンティ・セミティズム(反ユダヤ主義)をもう許してはならない。永久に終わらせねばならない、この途方もない出来事にけりをつけ、歴史を新たにやり直そう。人類が共同でそう決意表明することを、彼らは待ち望んだ。

戦争犯罪人の裁判 より

戦争犯罪人を裁く裁判が1945年11月20日ニュルンベルクで開始された。起訴状に記された主要な罪状は、「最終解決」そのものであった。ナチ指導者を裁く最初の公判は、1946年10月1日に終了したが、ちょうどこの日はユダヤ教の贖罪(しょくざい)の日にあたっていた。12人の被告が死刑判決を受け、3人が終身刑、4人が禁固刑、3人が無罪となった。その後、続ニュルンベルク裁判として知られるナチ犯罪者の裁判が、12回にわたって行なわれ、そのうち4つの裁判において「最終解決」の計画策定と実行が主要な争点となった。この12回の裁判で、177人のナチ党員が有罪とされ、12人に死刑、25人に終身刑、そして残りの者に禁固刑の判決が下った。ニュルンベルク以外でも、英米仏それぞれの占領地域で裁判が行なわれ、そのほとんどすべてでユダヤ人に対する残虐行為が裁かれた。1945年から1951年までの間に、あわせて5025人のナチ党員が有罪とされ、806人が死刑を宣告された。しかし、このうち実際に処刑されたのは486人にすぎない。さらに1951年1月、在ドイツ米国高等弁務官が発した恩赦令によって、米国占領地域で刑に服していた多数の高級戦犯の早期釈放が実現している。国連戦争犯罪人委員会は、日本人を含む3万6529人の「戦争犯罪人」リストを作成したが、その大多数がユダヤ人に対する残虐行為を問題にされている。このリストに載った者のうち、3470人の裁判は、戦争終了後3年間にわたり8連合国によって行なわれ、952人が死刑、1905人が禁固刑の判決を受けている。
これとは別に、戦争にかかわったほとんどすべての国で、非常に多数の戦犯裁判が、個別に行なわれた。約15万人が戦犯の嫌疑をかけられ、約10万人が有罪となり、その多くが反ユダヤの罪に問われたのである。「最終解決」に加担した何千ものナチとドイツ同盟国の将兵が、ソヴィエト連邦強制収容所送りとなっている。

犠牲者への補償 より

犠牲者への補償を求める動きも、同様にややあいまいな結果に終わった。1945年9月20日ユダヤ人協会を代表してハイム・ヴァイツマンが、4ヵ国の占領当局に賠償を求める請願を行なう。しかし返事はなかった。総括的な平和条約総括に関する交渉が行なわれず、平和条約調印もなされなかったからである。西側3ヵ国は、ナチ所有の資産を差し押さえ、それを売却してユダヤ人犠牲者補償のための基金とした。しかし個人一人ひとりの救済を目指して善意で始まった賠償計画は、頻雑な手続きのため機能しなくなってしまった。1953年までに処理された賠償請求はわずか1万1000件、支払われのは全部で8300万ドルにすぎない。
この間、1951年1月には、イスラエルの首相ダヴィド・ベン・グリオンが、ドイツ連邦政府に対し、総額15億ドルにのぼる集団賠償請求を提出した。50万人の難民を1人あたり3000ドルの費用を支払って、イスラエルがドイツから引き受けたというのが、計算の根拠となっていた。賠償請求をなせば、ドイツとの直接交渉が必要になる。強制収容所で生き延びた人々の多くにとって、これは耐えがたいことであった。
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対応が最悪であったのは、オーストリアである。国民の大多数がドイツによる併合を望み、700万国民のうち55万人がナチ党員となり、ドイツ人とともに大戦を戦いぬき、前述のとおりユダヤ人犠牲者のほとんど半数を殺したにもかかわらず、1943年11月にモスクワで発せられた連合国宣言は、オーストリアを「ヒトラーの野望の犠牲となった最初の自由国家」と規定したのである。したがって戦後開催されたポツダム会談において、オーストリアへは賠償責任を課さないことが決まった。こうして法的責任を免れると、オーストリアの全政党が協定を結び、同国はむしろ被害者であり、道義的責任を負う立場にないことを確認した。
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一方キリスト教会は、遅まきながらその道義的責任を取ろうと、積極的に動いた。カトリック教会もルター派の教会も、中世以来何世紀にもわたって反ユダヤの立場を取り続け、一般的なユダヤ嫌いの傾向に拍車をかけた。その行く着くところが、ヒトラーユダヤ人に対する所業であったのである。いずれの宗派も、戦争中の態度にはほめられるものではない。特にローマ教皇ピウス12世は、「最終解決」の存在について知っていたにもかかわらず、非難しようとしなかった。ユダヤ人の立場に立って物を言った2、3の勇気ある教会関係者は確かにいた。ベルリンにある聖ヘドヴィク・カトリック聖堂のベルンハルト・リヒテンベルク神父は、1941年、公式の場でユダヤ人のために祈りを捧げている。神父のアパートが家宅捜索を受け、説教のための覚え書が発見された。この覚え書から、ユダヤ人がすべてのドイツ人を殺そうと企んでいるとの陰謀説を信じてはならないと、信徒に訴えるつもりであったことが明らかとなった。神父は禁固2年の刑に付され、刑期を終えるとダッハウ収容所送りとなった。しかしこれ以外、聖職者が立ち上がった例は見当たらない。