じじぃの「歴史・思想_519_歴史修正主義・戦後ドイツ社会」

歴史修正主義

ウィキペディアWikipedia) より
歴史学において歴史修正主義(英: Historical revisionism)とは、歴史的な記述の再解釈を示すものである。
1986年6月6日、エルンスト・ノルテ(ドイツ語版)は『フランクフルター・アルゲマイネ』紙で「過ぎ去ろうとしない過去」を発表し、アウシュヴィッツソ連の「収容所群島」の模倣であり、ポル・ポトの大虐殺(英語版)などと比較可能であるとして、ホロコーストの歴史的意味合いを相対化しようとした。

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中公新書 歴史修正主義 - ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで

武井彩佳(著)
ナチスによるユダヤ人虐殺といった史実を、意図的に書き替える歴史修正主義ホロコースト否定論が世界各地で噴出し、裁判や法規制も進む。
100年以上に及ぶ欧米の歴史修正主義の実態を追い、歴史とは何かを問う。
序章 歴史学歴史修正主義
第1章 近代以降の系譜―ドレフュス事件から第一次世界大戦後まで
第2章 第二次世界大戦への評価―1950~60年代
第3章 ホロコースト否定論の勃興―1970~90年代
第4章 ドイツ「歴史家論争」―1986年の問題提起
第5章 アーヴィング裁判―「歴史が被告席に」
第6章 ヨーロッパで進む法規制―何を守ろうとするのか
第7章 国家が歴史を決めるのか―司法の判断と国民統合

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歴史修正主義

武井彩佳/著 中公新書 2021年発行

第4章 ドイツ「歴史家論争」―1986年の問題提起 より

戦後ドイツ社会と過去の認識

まず、当時のドイツが置かれた状況を見てみよう。
戦後のドイツ社会では、ナチ時代が遠ざかるにしたがって、対照的にナチズムが前景化した。1960年代末の学生運動以降は、過去と対峙することがドイツ人のあるべき姿と考えられるようになったため、ことあるごとに社会に潜むナチ的なものが掘り起こされ、人々の眼前にさらされてきた。ナチズムを二度と繰り返さないために、学校では現代史に力点を置く歴史教育が行われ、これは「政治教育」と位置付けられてきた。こうした過去を反省し犠牲者に対して謝罪を続ける姿勢は、国家的な路線として確立した。
しかし、公的に後押しされる政治文化は、半ば強制的に賛同を求める「ポリティカル・コレクトネス」(PC)ともなる。実際に、政治家がナチズムやユダヤ人に関して言葉を間違えようものなら、すぐに反ユダヤ主義者と糾弾され、政治生命を絶たれてきた。これは現在に至るまで、歴史に関する政治家の「失言」が「個人の見解」として繰り返される日本とは対照的である。
政治的な正しさを求める風潮は、政治の舞台だけでなく、文化や芸術でも見られた。たとえば、歴史家論争が起こる少し前だが、ニュー・シャーマン・シネマの旗手とされた映画監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(1945-82)の戯曲、『ゴミ、都市、そして死』に対して激しい上演反対運動が起き、中止された。
その理由は、戯曲に「金持ちのユダヤ人」というキャラクターが登場し、これが不動産の売買で財をなした実在するユダヤ人――のちに在独ユダヤ人中央評議会の会長となるイグナツ・ブービス(1927-99)であるが――を揶揄(やゆ)しているとされたためである。
劇中の「金持ちのユダヤ人」の人物描写は必ずしも否定的とは言えなかったが、「ユダヤ人=金持ち=貪欲」という反ユダヤ主義的なステレオタイプを連想させると批判されたのだ。

E=H・ノルテの問題提起

では、歴史家論争はどのように起きたのか、その経緯を追ってみよう。
論争の一極には、歴史家エルンスト=ヘルマン・ノルテがいた(1923-2016)。ノルテは現代史家ではあるが、実証研究者というより、歴史哲学者、思想史家といったほうが正しい。学問形成期には、ナチズムの関係性が問題視されることもある哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976)の下でも学んでいる。
歴史研究者としてのノルテは『ファシズムとその時代』(Der Faschismus in seiner Epoche 1963年)で20世紀のファシズム体制を比較し、国際的な評価を得た。教授資格を取ってからは、ベルリン自由大学で長く教鞭を執った。
論争の直接の発端は、1986年6月6日、『フランクフルタ―・アルゲマイネ』紙がノルテの「過ぎ去ろうとしない過去」と題した文章を掲載したことによる。
ノルテは、いかなる出来事も時間が経てば必然的に歴史となっていくが、ナチズムの過去だけは時間が経てば経つほど顕在化し、過ぎ去ろうとしないと筆を起こす。古代ギリシャダモクレスの逸話に譬え、ナチズムの過去は「裁きの剣のように現代の頭上に吊り下がっている過去」だという。気を抜けば頭に突き刺さり、ドイツの息の根を止める現実問題として存在していると言いたいのだろう。
さらにノルテは、ナチ体制下の強制収容所ソ連強制収容所に起源があり、人間を毒ガスで殺害したという「技術的な」点を除けば、ナチはソ連のシステムを摸倣したに過ぎないと主張した。つまり、ホロコーストに前例があったというのである。

歴史家論争の評価

現在から見ると歴史家論争は、本質的には学術論争であった。ノルテら保守派の主張に歴史修正主義的な動機が見え隠れすることはあったが、歴史家と歴史修正主義者の論争とは言いがたかった。
またこれは政治的な論争であった。実際には、ドイツが戦後進めてきた過去の克服の評価が問われていたのだ。
そして、これは冷戦という時代背景に大きく規定された論争であった。東西対立が解消したことで、歴史を使って政治を正当化する必要性は弱まった。
歴史修正主義との関係で、歴史家論争に大きな功績があるとすれば、ナチズムの歴史に関し国民も巻き込んだ議論が行われたことで、ドイツ社会が悪質な歴史の歪曲と、許容範囲にあるさまざまな歴史解釈とを、区別することができるようになったことではないだろうか。実際、当時北米で拡散していたツンデル(第3章 ホロコースト否定論の勃興、「ツンデル裁判」を参照)らのホロコースト否定論が、歴史家論争の議論に入り込む余地はほぼなかった。
歴史家論争を通じて、極端な歴史の歪曲や史実の悪意のある否定を、百害あって一利なしと断言する社会的合意が形成され、これはのちの章で見るホロコースト否定論の法規制を導入する下地となっていく。