じじぃの「歴史・思想_517_歴史修正主義・ニュールンベルグ裁判」

Gestapo Torture Chamber in Paris: World War II (1944) | British Pathe

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UGXWvPa1D0U

The Holocaust in France

フランスのユダヤ人一斉検挙初日の写真、パリで初公開

2021年5月14日 AFP
フランス当局は、市役所に集まった男性3747人を逮捕し、パリ南部の収容所に移送した。その後数か月で約数千人が検挙された。
収容所のユダヤ人らは1年後、アウシュビッツ・ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)強制収容所に送られた。
ナチスの宣伝部がプロパガンダ目的で撮影した「緑紙の一斉検挙」初日の写真98枚は最近、パリのホロコースト(Holocaust、ユダヤ人大量虐殺)犠牲者にささげられた「ショア記念館(Memorial de la Shoah)」によって偶然発見された。
https://www.afpbb.com/articles/-/3346573

ニュルンベルク裁判

世界史の窓 より
ナチス=ドイツの戦争責任と犯罪を断罪するための国際軍事裁判。ナチス指導者12名が有罪、死刑となった。
ニュルンベルクは、1933年以来、国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が毎年の大会を開催した場所であり、1935年にはナチス=ドイツがユダヤ人絶滅を宣言したニュルンベルク法の制定されたところであった。
連合国がこの地を選んだのはナチスの過去を断罪する強い決意表明であった。国際軍事裁判所の裁判長はイギリスのローレンス。1945年11月20日から7ヵ月間に合計403回の審理が重ねられ、46年10月1日に判決が言い渡された。
ナチス裁いた法廷、記念館に
第二次世界大戦後に連合国がドイツの戦争指導者を裁いたニュルンベルク裁判が開かれた裁判所に、2010年11月21日、記念館が開館した。
式典にはベスターベレ外相やロシアのラブロフ外相らが出席。ベスターベレ外相は「過去を知らずして、過去から未来のために学ぶことはできない」と述べ、世界史上での重要な役割を果たした裁判をその現場で後世に伝えていく意義を強調する。
https://www.y-history.net/appendix/wh1601-023.html

中公新書 歴史修正主義 - ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで

武井彩佳(著)
ナチスによるユダヤ人虐殺といった史実を、意図的に書き替える歴史修正主義ホロコースト否定論が世界各地で噴出し、裁判や法規制も進む。
100年以上に及ぶ欧米の歴史修正主義の実態を追い、歴史とは何かを問う。
序章 歴史学歴史修正主義
第1章 近代以降の系譜―ドレフュス事件から第一次世界大戦後まで
第2章 第二次世界大戦への評価―1950~60年代
第3章 ホロコースト否定論の勃興
第4章 ドイツ「歴史家論争」―1986年の問題提起
第5章 アーヴィング裁判―「歴史が被告席に」
第6章 ヨーロッパで進む法規制―何を守ろうとするのか
第7章 国家が歴史を決めるのか―司法の判断と国民統合

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歴史修正主義

武井彩佳/著 中公新書 2021年発行

第2章 第二次世界大戦への評価―1950~60年代 より

近代の国民国家は「想像の共同体」であると言ったのは、アメリカの政治学ベネディクト・アンダーソン(1936-2015)だ。想像の共同体では、互いに会ったこともなく、生涯何の接点も持たない人々が、同じ国家に属す国民だと感じている。自分たちの歴史に関する「国民の物語」があるからだ。物語の起源には、多くの場合、国家統一などの偉業か、戦争などの犠牲がある。国民意識は記憶が共同体により共有されることで形成される。
ところが、第二次世界大戦敗北後のドイツは、拠って立つ国民の物語が欠落した状態にあった。他国への侵略や虐殺という加害の歴史を、国民の共通の物語とすることはできない。ネガティブな過去に立脚する国民意識は拒絶されるだろう。
「普通」の国としての歴史、恥じる必要のない国民の物語への希求が、ナチズムの歴史を修正する動機となっていく。それはまずドイツの犯罪を世界の眼前に付き付けたニュールンベルグ裁判の否定という形で現れた。

ホロコーストとは何か

ドイツよりも早く、また終戦から時間を置かず、第二次世界大戦ホロコーストについての歴史修正主義が登場したのは実はフランスだった。フランスの状況について説明する前に、ここでホロコーストとは何であったかあらためて確認しておこう。
ホロコーストとは、ナチ・ドイツとヨーロッパ各国の協力者により組織的に行われたヨーロッパ・ユダヤ人の殺害のことをいう。
1933年1月にヒトラー政権が成立するとドイツ国内のユダヤ人の抑圧・迫害が始まるが、当初政府は移住や追放により「ユダヤ人問題」を解決しようと目論み、ユダヤ人の物理的な「末梢」を具体的に計画していたとまでいえなかった。
しかし、1939年9月にドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まり、ドイツが近隣諸国を占領していくなかで、ユダヤ人迫害はヨーロッパ規模に拡大していく。ドイツ支配地域ではユダヤ人がゲットーや強制収容所に送られ、強制労働を強いられ、飢えに苦しむようになる。
ユダヤ人の「絶滅」という意味でのホロコーストの始まりは、1941年6月の独ソ戦の開始にある。前線に展開するドイツ軍の背後で、親衛隊員などで構成される銃殺部隊(行動部隊)がユダヤ人ら民間人の虐殺を開始した。1941年の夏以降に、ヒトラーは文書ではなく、口頭でユダヤ人の絶滅命令を下したと考えられている。

なぜフランスなのか

フランスが戦後初期に、歴史修正主義ホロコーストと否定の発信源となったのには、いくつか理由がある。
第1に1940年にフランスがドイツに敗北した後、ドイツの傀儡(かいらい)であるヴィシー政権が発足し、国家的な対独協力が行われたことである。対独協力者の民兵がドイツ占領機構の手足となり、一部の市民がユダヤ人の排除に手を貸した。このためナチの免罪は、ドイツに協力した自分たちの免罪を意味した。
第2に、フランスには長い反ユダヤ主義の伝統が伝統があったことである。歴史修正主義反ユダヤ主義が結びつくことはすでに指摘したが、フランス右派の土着の反ユダヤ主義は、フランスがユダヤ人により支配されていると繰り返し主張してきた。ヴィシー政権下では、現地警察がイニシアチブを取ってユダヤ人の一斉摘発を行い、強制収容所へと移送した。
第3に戦後フランス政治は、「レジスタンスの神話」に立脚していたことである。第6章で詳しく述べるが、フランスでは市民が一丸となってドイツの支配に抵抗したという「神話」が、戦後広まった。実際には、対独協力者とナチ支配から個人的な利益を引き出そうとしたフランス市民の境界は曖昧だったが、「神話」はド=ゴール派による国民統合の手段として使われた。
こうした屈折した歴史が、フランスの歴史修正主義の背景にある。

バルデシュ――強制収容所の否定

まずモーリス・バルデシュ(1907-98)である。ジャーナリストで文芸批評家であり、ソルボンヌ大学で教えたこともある。フランスのファシズムの潮流に位置付けられる人物で、極右団体アクシオン・フランセーズの雑誌『ジュ・スィ・パルトゥ』(Je suis partout)の編集者であった。対独協力者として処刑された作家ロバール・ブラジャック(1909-45)は義兄にあたる。自身も対独協力者として死刑判決を受けたが、恩赦で刑の執行を免れた。
バルデシュは戦前からファシズムに傾倒していたが、戦後は敬愛したブラジャックの処刑と、フランスで繰り広げられた対独協力者の「粛清」が、ナチ犯罪の否定と戦後体制の拒否に向かわせたようである。
バルデシュは、『ニュルンベルクあるいは約束の土地』(1948年)のなかで、ニュルンベルク裁判の正当性を否定する。第二次世界大戦の責任は主にユダヤ人であり、彼らは自らの罪を隠蔽するために、連合軍と共謀して強制収容所を捏造したという。強制収容所について証言する者は、多くの場合ユダヤ人か共産主義者であり、信用できないともいう。
また、対独協力を正当化する意図で、第二次世界大戦中にユダヤ人は600万人も死んでいないと主張した(もっとも80万~90万人は「病死した」と認めた)。さらに、ヒトラーが「最終解決」を命じた文書がないことを理由に、総統はホロコーストについて知らなかったとも言った。そして自分はドイツを弁護しているわけではなく、「真実」を守ろうとしているに過ぎないと開き直った。
バルデシュは著書で虐殺を擁護したという理由で、1952年に1年の禁固刑と5万フランの罰金を科されたが、有力政治家の力添えで恩赦となり、数日収監されたのち釈放されている。