じじぃの「歴史・思想_353_ユダヤ人の歴史・ホロコースト・ポーランドでの強制労働」

Concentration Camp - The War, a Nebraska Story

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Pat3J7UwtW4

Bratislava During the Holocaust Forced Labor Camps

The Story of the Jewish Community in Bratislava

The segregation of Jews from economic and social life, and their exclusion from a long list of professions, led the authorities to send the now unemployed and impoverished Jews to forced labor camps.
In 1941 the Ministry of Interior ordered the Jewish Center to organize forced Jewish labor in work centers and work commandos. Unemployed Jews - most of whom were merchants, intellectuals or students - between the ages of 18 and 60 were forced to report for work details.
https://www.yadvashem.org/yv/en/exhibitions/communities/bratislava/labor_camps.asp

ユダヤ人の歴史〈下巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

死の労働と飢餓 より

開戦とともに、ポーランドの半分と200万人を超えるポーランドユダヤ人が、ヒトラーの手中に落ちた。ポーランドは被占領国であったから、何でもほとんど好き放題にできた。そして再びヒトラーの二面(感情的な憎悪と冷静で合理的な判断)作戦が発動された。ドイツと同様、まず自然発生的なユダヤ人への暴力行為が発生する。ただしドイツにおけるよりずっと大がかりで、いっそう残酷であった。例えば50人を超えるユダヤ人が、シナゴークで礼拝中に射殺される事件が起きる。親衛隊は各地で乱暴狼藉をほしいままにした。1940年の初めには、ナシェルスクで1600人のユダヤ人が、夜通し殴打された。親衛隊を嫌っていたドイツ陸軍は、この模様を記録に残している。この災難にあったユダヤ人の中には、かろうじて生き延びた者もいた。こうした無秩序な虐待は、もっと「秩序立った」解決を望む声を引き起こし、組織的迫害の開始につながる。
1939年9月19日、ヒトラーポーランドの大部分をドイツ本国に併合することを決定した。被併合地区に居住していた約60万人のポーランド系やユダヤ人は、「総督府管轄区」と呼ばれる併合対象外地域へ移され、鉄道沿いに設けたいくつかのゲットー(ユダヤ居留地)に収容された。ヒトラーは続いてドイツ在留ユダヤ人も、これらポーランドの各拠点へ強制的に送り込むよう命じた。ここでドイツ帝国鉄道とその事務員50万人および作業員90万人の果たした役割が問題になる。もし鉄道がなければ、ホロコーストは不可能であった。専任の鉄道員が時刻表を作成し、他の戦争目標との調整を図りながら、ゾンダーツークと呼ばれる強制移動のための特別列車運行に従事した。そして親衛隊が指定した場所へ間違いなく輸送するため、異常とも思えるほどの努力を払ったのである。ユダヤ人を乗せた列車は、最優先で運行された。1942年7月、266師団を動員したロシア総攻撃が始まり、軍事作戦以外の鉄道利用がほとんど全面的に禁止されても、親衛隊は5000人のユダヤ人をトレブリンカへ運ぶ列車便を毎日、同じく5000人をベルジェツへ運ぶ列車便を週2回、運行し続けた。スターリングラードからドイツ軍が総退却する大混乱の中でさえも、ヒムラーは次のような書簡を運輸大臣に送っている。
「すべてを早急に片づけるためには、輸送のためさらに列車が必要である。もっと列車をよこしてほしい」
運輸大臣はこの要請に逆らわなかった。列車の運行状況をつぶさに観察すると、ヒトラーにとってユダヤ問題がどれほど重要であったか、また一般ドイツ人がヒトラーの計画遂行にどれだけ協力したかを、他の何にもましてよく理解することができる。
いったんユダヤ人が隔離され、動員され、ヒトラーが「巨大なポーランドの労働キャンプ」と呼んだ総督府管轄区に移されると、強制労働が本格的な規模で始まった。これこそ「最終解決」、すなわちホロコーストの第一段階である。過酷な労働によってユダヤ人を殺すことが目的だったからである。労働者配置局長官、フリッツ・ザウケルは、ユダヤ人を必要最小の費用で最大限活用するよう命令している。労働者は日の出から日没まで、1週間7日、ぼろをまとい、パンと薄いスープ、じゃがいも、そしてまれにくず肉をあてがわれただけで、酷使された。ユダヤ人が初めて奴隷のごとく本格的に使役されたのは1940年2月、戦車の侵攻を防ぐため、東部戦線にそって長大な塹壕(ざんごう)を掘る作業である。その後、この方法はすべての産業分野に広がった。必要な数の労働者は電話で注文することができた。彼らはまるで原材料のように貨車へ積み込まれ、所定の場所へ配送された。例えばI・G・ファルベン社は、250人のオランダ系ユダヤ人女性を、ラーフェンスリュックからダッハウまで貨車で運ばせ、同じ貨車を回送して200人のポーランド人女性を再びダッハウまで届けさせた。
強制労働に従事する者は、50キロもあるコンクリートを詰めた重い袋を運ぶときでも、「アウシュビッツ式歩調」と呼ばれた通常の2倍の速さで歩くことを強いられた。ヒトラーの故郷リンツの近くにあるマウトハウゼンには、ヒムラーが町営の石切り場近くに建てた労働キャンプがあった。労働者は斧とつるはしだけを与えられ、186段もある急勾配の狭い階段を上り下りして、みかげ石の重い塊を石切り場からキャンプまで運ばせられた。彼らの平均寿命は6週間から長くて3ヵ月、この中には事故、自殺、処罰による死亡者は含まれていない。