じじぃの「歴史・思想_351_ユダヤ人の歴史・ホロコーストへの第一歩」

Anti-Semitism: Hitler's Rise to Power

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Kdt3djET6MA

Origins of Neo-Nazi and White Supremacist Terms and Symbols

Origins of Neo-Nazi and White Supremacist Terms and Symbols

United States Holocaust Memorial Museum
The eruption of neo-Nazism and White Supremacy across the country has exposed the public to symbols, terms, and ideology drawn directly from Nazi Germany and Holocaust-era fascist movements.
https://www.ushmm.org/antisemitism/what-is-antisemitism/origins-of-neo-nazi-and-white-supremacist-terms-and-symbols

ユダヤ人の歴史〈下巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

ヒトラーの権力把握 より

ユダヤ体制がドイツに誕生するのは、防ぎようがなかったのかもしれない。しかし1933年の2月から3月にかけて、わずか8週間の間に、ヒトラーが彼個人と党の独裁体制を固めるに及んで、ユダヤ人に対する組織的な攻撃開始は確実なものとなった。ユダヤ人の作家、芸術家、知識人は、ヒトラーが彼らを狙い撃ちするのを予測していた。そこで彼らの大部分はできる限り速やかに国を離れた。その結果、ヒトラーが実際殺したユダヤ人の数は、スターリンほど多くない。しかも表面上、ナチのユダヤ人対策は、近代以前に見られた国家による反ユダヤ政策へ逆戻りしたに過ぎない。1920年に採択された党の政策は、ユダヤ人から市民権を剥奪し、公職につく権利や投票権を奪うとしており、ユダヤ人を「一時滞在者」とみなし、1914年以降ドイツへ入国した者は、追放するとしていた。ユダヤ人の財産没収をほのめかす文言もあった。しかし数多くの演説や著書『わが闘争』の中で、ヒトラーユダヤ人に対する暴力行使による威嚇(いかく)を約束している。1922年、ヨーゼフ・ヘル大佐と交わした指摘な会話で、ヒトラーは一歩踏み込んだ発言をした。権力を把握した暁(あかつき)には、と彼は述べる。
ユダヤ人抹殺は、わたしが取り組む最初の、そして最重要の課題となろう。(中略)ユダヤ人に対する憎悪が沸き起こり、彼らに対する戦いが始まれば、抵抗は短期間でたやすく収まるはずである。ユダヤ人には自らを守る術がないし、誰も彼らを保護しようとしないだろう」
ヒトラーはヘル大佐に、およそ革命を成功に導くためには、敵意を一点に集中し、「広汎な大衆の憎悪感情」にはけ口を与えることが必要だとの考えを披瀝している。ヒトラーは彼自身の信念からだけでなく、合理的な政治上の計算からも、ユダヤ人を選んだのである。「ユダヤ人に対する戦いは、大衆の支持を受け、しかも成功するだろう」。ヘル大佐との会話は、ヒトラーによる反ユダヤ運動の二面性(感情的な憎悪と冷静で合理的な判断)をよく表しているがゆえに、とりわけ示唆に富んでいる。感情的な憎悪と冷静で合理的な判断が、入り混じっているのである。ヒトラーはその両方を、ヘル大佐に打ち明けた。
「わたしは例えばミュンヘンのマリエン広場に、交通事情が許すかぎり多くの絞首台を設けるつもりだ。そしてユダヤ人を一人ひとり吊るすのだ。やつらが死臭を発するまで、そのまま吊るしておく。(中略)1つ死体を降ろしたら、次のやつを吊るしてやる。ミュンヘンの街にユダヤ人が一人もいなくなるまで、続けるのだ。そして、これとまったく同じことをドイツの他の都市でも行ない、ドイツから一人残らずユダヤ人を消し去るのだ」
ヒトラーの二面性は、ユダヤ人に対する暴力の行使にあたっても表れた。自然発生的かつ非常に感情的で、抑えのきかない伝統的な乱暴狼藉(ろうぜき)を許す一方、冷徹かつ組織的、合法的かつ統制の取れた国家による暴力を、法律と警察の力を用いて振るったのである。権力掌握のときが近づき、そのための手段が巧妙になるにつれ、ヒトラーは感情的な暴力行為を表に出さぬよう気を配り、法律的手段を全面に押し出した。ワイマール共和国に対し人々が抱いていた大きな不満の1つは、街頭の無法状態である。多くのドイツ人は、この状態に終止符を打つというヒトラーの公約を、好ましく思った。けれども公約とは裏腹に、政権につくずっと以前から、ヒトラーは彼の二面性アンティ・セミティズムを実行する手段を、着々と整えていた。1つは党のならず者たちである。特に1932年末の時点で50万人を数えるまでに成長していたSAすなわち突撃隊は、街頭で頻繁にユダヤ人へ襲いかかり、時には殺人まで犯していた。他方、エリート集団のSSすなわち親衛隊は、警察と収容所を運営し、国家権力を用いて高度に発達した組織的なユダヤ人迫害を実行した。

ホロコーストへの第一歩 より

ヒトラーが権力の座にあった12年間を通じて、ユダヤ人迫害の見られるこの二面性が保たれた。最後の最後まで、ユダヤ人は個人による突然で無分別な暴力行為の標的となり、同時に大がかりな計画に基づいた、国家の手による組織的な残虐行為の犠牲となったのである。戦争が始まる前、最初の6年間、ヒトラーは2つの暴力形態の間を行ったり来たりした。戦争が始まって情勢が悪化し統制が厳しくなると、しだいに後者が勢いを増し、その規模は壮大なものとなっていく。確かにヒトラーは、事態に応じ即興的にものごとを決める、戦術の天才であった。迫害の規模と手段が巨大になり、止めようとしても止まらぬ独自の勢いをもちはじめたのは、事実である。それでもなお、全体的な戦略が常に存在し、計画全般が掌握されていた。それはヒトラー個人の反ユダヤ思想に基づき、ほかならぬヒトラー本人から発したものだった。ホロコーストは計画的に行なわれたのであり、計画を作ったのはヒトラーである。この恐ろしい出来事を理解する鍵は、それしかない。