N/S Part 08: The Holocaust by Bullets in Zhitomir, Ukraine
アインザッツグルッペン Weblio辞書 より
アインザッツグルッペンは複数表記で、単数形はアインザッツグルッペ(Einsatzgruppe)となり、直訳すると「出動集団」である。
正式名称は「保安警察及び保安部のアインザッツグルッペン」(Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des Sicherheitsdienstes)という。本稿では「アインザッツグルッペン」と表記するが、意訳で「特別行動部隊」「特別任務部隊」という表記もよく見られる。それ以外には「移動虐殺(もしくは殺人・抹殺・殺戮)部隊」といった意訳も見られる。
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大量殺戮による最終解決 より
ユダヤ人殺戮を開始するにあたって、親衛隊は一酸化炭素ガスやツィクロンBという商品名のシアン系殺虫剤など、さまざまな毒ガスを試みた。最初のガス室は1939年後半、ブランデンブルクの安楽死施設に設けられ、精神障害の患者4人の試験的殺害に、ヒトラーの主治医カール・ブラントが立ち会っている。ブラントはヒトラーにその結果を報告し、ヒトラーは一酸化炭素ガスだけ用いるよう指示した。その後5つの安楽死施設で、新たなガス室が設けられる。ガス室は「シャワールーム」と呼ばれた。犠牲者は20人から40人ずつ一組となり、シャワーを浴びるのだと聞かされて送り込まれる。いったん中に入ると密閉され、当番の医師がガスを放出する。後に大量殺戮が行なわれたとき用いられたのと、基本的には同一の方式である。このプログラムによって8万人から10万人が殺されたが、1941年8月、中止となる。教会から抗議が寄せられたからである。これはヒトラーの殺戮行為を教会がやめさせた唯一の例である。しかしこの時期までに、ガスを用いた殺人は、精神障害の患者だけでなく病気で動けなくなった強制収容所のユダヤ人に対しても、行なわれるようになっていた。方法、装置、専門家などすべての面で、安楽死プログラムと「最終解決」は、直接つながっていたのである。
1949年、41年を通じて、ポーランドでは多数のユダヤ人が殺され続けたけれど、本当の意味で大量殺戮が始まったのは1941年6月22日、ヒトラーがロシア侵攻を開始した後である。この作戦の目的は、ユダヤ赤色革命の総本山を殲滅(せんめつ)し、当時ソ連の支配下にあった500万のユダヤ人を手中に収めることにあった。殺戮には、2つの方法が用いられた。特別行動隊と。固定の殺戮施設、すなわち絶滅収容所である。特別行動隊誕生の経緯は、1940年7月22日、大量殺戮をともなう全面戦争の構想を、ヒトラーが初めて陸軍に提示したときまでさかのぼる。親衛隊の処刑部隊を戦術的理由で傘下に収めて以来、陸軍もまた「最終解決」に深くかかわるようになっていた。1941年3月3日、ヨードル将軍は、軍事日誌に、対ソ作戦開始の暁には「ユダヤ・ボルシェヴィキ知識階級」撲滅のため、親衛隊憲兵組織を陸軍最前線地域へ展開する必要ありとの、ヒトラーによる決定を記録している。
これがアインザッツグルッペと呼ばれる・「特別行動隊」の起源である。帝国保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの指揮下におかれ、ハイドリヒはヒムラーを通じてヒトラーから指揮を受けていた。
死の収容所
ユダヤ人の中には、床下や地下室に身を潜めた者もいた。彼らは手榴弾で爆殺され、あるいは生きたまま火をかけられて始末された。ユダヤ人の女性の中には、命を引き換えに殺人者へ体を与えた者もいる。彼女たちは夜のうち慰み者とされ、朝になると同じように殺された。撃たれてもすぐには死なず、数時間、ときには数日、苦しみに悶えながら息絶えたユダヤ人もいる。多くの残虐行為がなされた。殺す側にもためらいも見られた。まったく抵抗を示さないこれほど多くの人々を殺害するのに辟易(へきえき)する者が、厳選された特別行動隊員の中にさえいた。なにしろ殺人者の側で殺戮作戦中に命を落としたものは一人もいなかったのである。記録によれば、ヒムラーは一度だけ処刑作戦の視察に訪れ、100人のユダヤ人が射殺されるのを目撃している。ところが次々銃声が轟きユダヤ人が射殺されるのを、正視できなくなってしまった。現場の指揮官は、ヒムラーをとがめる。
「陛下、これはたったの100人です」
「どういう意味だね、それは」
「特別行動隊員の目をご覧ください。いかに震え上がっているかわかるでしょう。彼らはもう廃人も同然です。ここで養成しているのは、どんな人間だかおわかりですか。強度の神経障害者か、生粋の野蛮人か、そのどちらかしかありません」
ヒムラーは視察のあと隊員に演説をぶち、「党の最高道徳律」を尊寿するよう、呼び掛けた。
射殺の際、処刑者と犠牲者の間で生じる接触と感情移入を避けるため、特別行動隊は他の殺害方法も試みた。ダイナマイトの使用は、まったくの不成功に終わる。そこで次に、ガス室をそなえた有蓋(ゆうがい)トラックが導入された。まもなく2台ずつが、各大隊に送られる。一方、特別行動隊の仕事は、固定殺戮施設、いわゆる絶滅収容所によって補われはじめる。
絶滅収容所は6ヵ所建設され、それぞれ設備が整えられた。ドイツ本国に併合されたポーランド領内のヘルムノとアウシュビッツ、そしてポーランドの総督府管轄地区にあるトレブリンカ、ソビボル、マイダネクとベルジェツがそれである。
ある意味で、「絶滅収容所」という呼称を別途用いて他の収容所と区別するのは、誤解を招きやすい。当時補助収容所を含む強制収容所は1634ヵ所あり、加えて労働収容所が900以上存在した。これらの収容所でも、非常に多くのユダヤ人が、飢餓、過労が原因で死に、些細な規則違反で処刑され、あるいは何らの理由なしで殺されたことを考えれば、すべてが絶滅収容所であったと言ってよいのである。ただ前述の6収容所は、まるで工場であるかのように機械的な大量殺戮そのものを目的として建設あるいは拡張された点で、他の収容所とは異なっていた。
ヒトラーが固定施設での大量殺戮開始命令を下したのは1941年6月、特別行動隊が導入されたのと同時期であるように思われる。しかしこれまで述べたとおり、毒ガスを用いた大規模な殺戮は、すでに始まっていた。1941年3月、ヒムラーはアウシュビッツの所長ヘスに、大量殺戮実行のためガスによる処刑方式を本格的に開始するよう、指令する。アウシュビッツは鉄道の便がいいし、人口密集地域から離れているので選ばれたと、ヒムラーはヘスに告げた。そして時をおかず、ヒムラーはルブリン親衛隊警察司令官のオディロ・グロボツニクに、マイダネク収容所の建設着手を命じた。この男は、ベルジェツとソビボルを合わせた3絶滅収容所運営の総責任者となる。指揮系統は、次のとおりであった。ヒトラーの命令はヒムラーを通じて各収容所長に伝達される。加えて4ヵ年計画局の長ヘルマン・ゲーリング元師が、政府諸官庁の利害を調整し協力を得る役割を果たす。この点は重要である。ホロコーストの実行部隊は親衛隊であったけれども、犯罪がドイツ政府のあらゆる官庁、軍隊、産業界、党を巻き込み、国家規模で実行されたことを示しているからである。ヒルバーグが述べたとおり、「こうした協力体制は完璧であって、絶滅作戦はあらゆる組織が一体となった巨大な機構によって行われたと考えてよい」のである。