じじぃの「人の死にざま_815_ルイ16世」

Cribs with Louis XVI 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=V_Y_-1mAKLk
ラ・マルセイエーズ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=D1yYFjKa2Nc
ベルサイユ宮殿 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=BS4hXHTtHyA
ルイ16世 (フランス王) フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ルイ16世は、ブルボン朝第5代のフランス国王およびナバラ国王(在位:1774年5月10日 - 1792年8月10日)。ルイ15世の孫。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット
在位中にフランス革命(1789年-)が起こり、1792年に王権が停止され、翌年処刑された。フランス最後の絶対君主にしてフランス最初の立憲君主である。1791年憲法に宣誓して以後は、称号は「フランス国王」ではなく「フランス人の王」となる。
【婚姻】
長年敵対してきたブルボン家ハプスブルク家の間の和議を結ぶため、オーストリアマリア・テレジアにより娘マリア・アントーニアとブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフとの政略結婚が画策されていたが、1761年のルイ・ジョゼフ死去により1763年5月、ルイ・オーギュストとの結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣された。結婚の反対者であったルイの父が1765年に死亡した後の1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿にて王太子ルイ・オーギュストとマリア・アントーニアの結婚式が挙行され、王太子妃はマリー・アントワネットとなった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ルイ16世 (1754-1793) 39歳で死亡。 (一部抜粋しています)
1793年1月21日月曜日午前10時10分、善良暗愚なルイ16世を乗せた4輪馬車は、革命広場に到着した。
――死の数時間前、タンプル牢の牢獄の1室に運ばれた最後の料理、仔牛のカツレツ6枚、鶏の半身肉のソース煮1皿、パン、サラダとフルーツ、白ワイン2杯、カリカント・ワイン1杯、これだけを一気に食べて、彼はそのあと皿をパンでぬぐったといわれる。
王を迎えたギロチンの断頭職シャルル・アンリ・サンソンは、規則に従って王の上衣をぬがせようとしたが、王はそれをしりぞけてみずから脱衣した。ついでサンソンは、これまた規則通りに王をうしろ手に縛ろうとすると、王ははげしく抵抗した。この抵抗で王のシャツはビリビリに裂けた。
やがて王は、断頭台の狭い急な階段を、エッジウォルト神父に支えられて上った。
王はギロチンを背に、群衆にさけんだ。
「人民よ、余は罪なくして死ぬる。余は、人々の科する罪に当たるものではない。しかし、余は余の血がフランス人の幸福の固めとならんことを切望する」
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11時20分、断頭刃がすべり落ちた。刃がうなじと下顎を砕いたが、完全に断(た)ち切れず、王は絶叫した。もう一度刃を上から押して、やっと首が落ちた。
規則によってサンソンは、王の髪をつかんで首を群衆に示した。そのときサンソンは涙を浮かべていたので、息子のアンリ・サンソンがあわててその前に立って、群衆から父を隠した。その涙を革命党の人間に見られると、自分たちもギロチンにかけられる怖れがあったからである。
広場には数瞬うつろな静けさが満ち、やがてまもなく「共和国万歳」というさけびがまばらに起った。徐々にその声は数を増し、10分もたたぬうちに大群衆の絶叫となっていった。人々は輪を作って、「暴君の首が落ちた」とさけび、声をかぎりに、ラ・マルセイエーズを歌って踊り狂った。処刑台の下では、数多くの人々が王の血で手を洗っているのが見られた。

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