じじぃの「カオス・地球_239_関眞興・ドイツ史・バロック音楽・バッハ」

【ゆっくり解説】バロック時代を代表するドイツの作曲家、音楽の父と称されるバッハ 10分でわかりやすく解説

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=gyN78_IDZTA

エネルギッシュなドイツの音楽シーン その1

2014.11.21 RUF(ルフ)
各地で開催される音楽祭も盛んで、バイロイトワーグナー音楽祭から、ゲッティンゲンのヘンデル音楽祭、ライプツィヒのバッハ音楽祭、現代音楽の催しドナウ=エッシンゲン音楽週間に至る様々な音楽祭が盛んに開催され、まさに音楽大国と言ってもいいでしょう。
https://www.ruf-betten.jp/column/Wunderbares/entry-214.html

一冊でわかるドイツ史

【目次】
プロローグ
1 始まりはフランク王国

2 オーストリアプロイセン

3 動乱のドイツ連邦
4 近代ドイツ帝国
5 ワイマール共和国からナチスドイツへ
6 連邦共和国と民主共和国

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『一冊でわかるドイツ史』

関眞興/著 河出書房新社 2019年発行

ドイツとはどういう国か。その歴史を図やイラストを使いながらわかりやすく、ていねいに描く。コラム「そのころ、日本では?」「知れば知るほどおもしろいドイツの偉人」も役に立つ。

2 オーストリアプロイセン より

君主たちが考えていたこと
18世紀後半、プロイセンのフリードリッヒ2世やオーストリアマリア・テレジア、その子ヨーゼフ2世などは、「啓蒙専制君主(けいもうせんせいくんしゅ)」と呼ばれます。啓蒙とは、簡単に言えば「人々を教え、知識を身につけさせること」という意味で、「専制君主」とは、「統治に関わる絶対的な権力を持っている君主」です。

当時のプロイセンオーストリアの主要な産業は、農業でした。イギリスやスペインなど海外に出て貿易などを行っていた国々とくらべ、市民たちの知識レベルは低かったため、経済成長が見込めませんでした。

国の状況を理解していたフリードリッヒ2世やマリア・テレジアは、みずからの指導のもとで、市民を教育していかねばならないと考え、政治改革を行います。

たとえば、フリードリッヒ2世は幼少期からフランスの啓蒙思想ヴォルテールの『法の精神』に親しみ、『反マキャベリ論』という本を書いています。「君主は、人民の幸福と公共の福祉を最大の務めにしなければならない」と考えていました。

フリードリッヒ2世は近代化を主導し、農民たちが暮らしやすくなるような政策を実行しようとします。ただし、プロイセンでは農民をこき使うユンカー(地主貴族)が依然として力を持っており、フリードリッヒ2世の改革に強力しませんでした。

マリア・テレジアもまた、近代化を進めようとしました。カトリック教会に属しながら利権にまみれるイエズス会を禁止し、教会を離れた人々を採用して、教育事業に力を注ぎます。息子のヨーゼフ2世がこの政策を引き継ぎました。

改革を急いだヨーゼフ2世は、生涯で6000もの法令を出しました。ところが、あまりに現状を無視して何でも変えようとしたため、既得権益を持つ層は大反対します。彼の死後、多くの法令は撤回されました。

天才アーティストが続々登場
帝国が戦乱でゆれ動くなか、各地で新しい文化活動が始まります。

18世紀後半から19世紀にかけて、プロイセンのケーニヒスベルグ(現在のカリー二ングラード)出身のカントや、ビュルテンベルク公国シュトゥットガルト出身のヘーゲルが「ドイツ観念論哲学」とのちにいわれる新たな学問の領域を興しました。以後ドイツでは、ヘーゲルを継承するマルクスがが社会主義(悲惨な状態にある労働者が楽しく暮らせる社会の実現をめざす思想)の理論を完成させます。

ほかにも、厭世主義(えんせいしゅぎ、ペシミズム)を説くショーペンハウェル、超人思想を説くニーチェ精神分析学のフロイトなどの学者が次々と現れました。

音楽の分野でも、現代の教科書に名前を連なる作曲家が多数登場します。バロック音楽の最高峰のバッハ(現在のチューリンゲン州出身)、古典派の巨匠ハイドン(現在のニーダーエスターライヒの出身)、ウィーン古典派のモーツァルト(現在のオーストリアザルツブルク出身)、楽聖(がくせい)と呼ばれたベートーベン(現在のノルトライン・ウェストファリア州出身)などがいました。とくに多くの音楽家が集まったウィーンは、「音楽の都」と呼ばれました。

文学の世界では「疾風怒濤(しっぷうどとう、シュトゥルム・ウント・ドラング)」といわれた、人間の持つ感情の動きを重視する作風が、一世を風靡(ふうび)します。それまで主流だったフランスの貴族的な文学ではなく、青年たちの生きることの喜びや苦しみを掘り下げる作品が流行しました。フランクフルト出身のゲーテが書いた『若きウェルテルの悩み』やビュルテンブル出身のシラーが書いた『群盗(ぐんとう)』は、現在も名作として読み継がれています。18世紀になると領邦によって違いはあるものの、初等教育(小学校レベルの教育)が農村にまで普及しました。

宗教改革以降の学校では、キリスト教をやさしく教える授業でしたが、実用的な学問も求められるようになり、国語や算数などを教える教科書もつくられるようになります。こうして、読み書きができる人々が増え、雑誌や新聞、本が出版され始めました。

フランスで発展した、サロン(知識人たちの集まり)がドイツにも入ってきて、啓蒙思想が広がります。新しい大学も設立され、ドイツ人に知識水準が向上していきました。